(エ)加賀藩と南蛮文化
さらに詳しく! 南国九州の甘口文化が中国や南蛮の砂糖文化とのかかわりのなかで構築されたことについては、すでに述べました。では、加賀はどうなのでしょう。北国にあって、南蛮との関わりはあったのでしょうか。
           
 代表的な加賀料理に「じぶ煮」があります。これは、鴨の肉と生麩・野菜類を醤油と砂糖で甘辛く煮、片栗粉でトロリととろみをつけた煮物料理です。この「じぶ煮」はなんとキリシタン大名として有名な高山右近が、宣教師から教えられた西洋料理をヒントに考案したと言われているそうです。加賀の食文化については浄土真宗の文化、北前船の運んだ海洋交易文化、武家文化、上方文化の影響などが指摘されますが、南蛮文化の影響もあるようです。
 2003年は高山右近の生誕450年にあたり、右近を主人公にしたオペラ「高山右近」の上演や「加賀百万石異聞・高山右近」(北国新聞社)といった本の出版などが続き、加賀はちょっとした「右近ブーム」でした。一昨年の「利家とまつ」ブームに続けという感じでしょうか。
 高槻領主でありキリシタン大名であった高山右近は、いまから約415年前の伴天連追放令の翌年天正16年(1588年)に、前田利家によって金沢に迎えられて後、マニラに追放されるまで、加賀藩に客将として身を寄せていました。右近の生まれたのは天文21年(1552年)といいますから、36歳から62歳までの26年間を前田利家・利長とともに加賀で送ったことになります。それは人の人生のうちで最も質の高い功績を成せる期間だと思います。
 加賀に入って後の高山右近の業績といえば、金沢城の修築、高岡城の築城などがあげられますが、右近や彼の家臣たち・右近に随行したといわれる宣教師たちが、北陸でどのようなキリスト教の布教活動をしたかについては具体的な史料がほとんど残されておらず、ベールに覆われています。加賀における右近やキリシタンの歴史は故意に跡形もなく抹殺されたのです。
(上)高山右近が縄張りをしたという高岡城(古城公園)に残る石積み。土塁やお堀は築城当初の姿がほぼそのままの姿で残されているといわれる。高岡城は 敷地を南北に細長く取り建物を左右対称に2列に並べるという特徴ある構造。この特異な様式を西洋建築の影響とする見方もある。現在も古城のお堀はどんなに雨量の少ない季節でも豊かな水量を蓄えている。「日本中の水が枯れても高岡のお堀の水は大丈夫」といってはばからない古老も高岡にはいる。高岡は豊かな水の町だ。水源はどこなのか、なぜ水位が一定に保たれているのか、高岡の不思議のひとつ。
(中)高山右近が奉納したといわれる横田町有礒宮の石垣。戸室石を使用。築城式の精巧な石積みが近くで見られる。北陸道の高岡町入り口に位置する有礒宮は、もとは防御のための城塞であったとも。北陸道は有磯宮の前でほぼ直角に折れ、高岡町へとつながっている。(下ふたつ)高岡城石積みに残る謎の絵文字。金沢城や有磯宮の石積みにも同じ絵文字がみられる。十字架に似た文字も。
 
 関が原の戦い以降、内藤ジョアン・宇喜多休閑といったキリシタン大名やその家臣・家族も加賀で高山右近一族とともにありました。金沢紺屋坂や能登にあった右近の知行地にはキリスト教会があってクリスマスを祝うこともしていたそうですし、バテレン宣教師によって布教がすすめられ加賀ではキリスト教信者が1500人にも増えたといいます。そして、加賀のキリスト教の特徴は大衆的宗教というよりも、武士階級や町人の信者が多くを占めるという点にあったと言われます。
 また、加賀藩は、医学・化学・天文学・建築学・地質学・土木工学・鋳造技術・航海技術・暦といったハイレベルの南蛮文化を積極的に受け入れました。新鋭の南蛮文化の摂取には、高山右近をはじめとするキリシタンたちの貢献が大きかったのではないでしょうか。
瑞龍寺仏殿の屋根は鉛瓦(なまりがわら)で葺かれている。鉛瓦は金沢城と瑞龍寺にのみみられるとても珍しいもの。従来「有事の際の弾丸用に屋根瓦として鉛を備蓄した」とされてきたが、実際にこの建物の美しさにふれると、「鉛瓦は建物を荘厳に装飾するものとして使用された」という見方のほうがうなずける。鉛ふきの屋根は中世・近世のヨーロッパの建築に広く例が見られるという。鉛瓦の鉛は厳密には、銅と鉛との合金。西洋の高度な鋳造技術の影響を受けている。鉛瓦には槌で打ち出して前田家の家紋の梅鉢を浮き立たせる工法が用いられている。日の光を返して白く輝く壮麗な鉛瓦に梅鉢紋、加賀前田家の威信がここにある。重い屋根を支える建物の基礎や内部の柱・梁もみごと。皆様、必見。
瑞龍寺にはどうみても西洋人の顔立ちで目をかっと見開いた碧瞳達磨(羅漢)像がある。現在は色落ちしているが、「碧瞳」という名のとおりかつては「ブルー・アイ」をしていたのだろう。座禅を組んでいるように見えるが、着衣には仏教の法衣ではなくドレープのついたケープかマントのようなものが。マルコポーロの像であるともいわれているが、バテレン宣教師のひとりがモデルなのかもしれない。この達磨(羅漢)さんは高岡にもち米の穂をもってこられたとも伝えられる。
 種子島の鉄砲伝来以降、各大名たちはこぞって兵法から築城技術にいたるまで南蛮文化を積極的に受け入れましたが、加賀前田の殿様は南蛮文化の摂取に特別熱心で舶来ものが大好きでした。しかも禁教とされたキリスト教の布教にもある時期まではとても寛大であったようです。「かつて加賀藩は日本一のキリスト教大国だった」とする説もあります。
 しかし、徳川家康によってキリスト教禁教令がしかれて後、状況は変わりました。高山右近・内藤ジョアンはともにマニラに送られ、浮田休閑は津軽に追放になりました。バテレン宣教師や信者数名もマニラに送られました。その後、若干の緩和期もあったようですが、厳しい宗門改めの断行によって加賀のキリスト教は終焉を迎えたようです。
 戦国時代から江戸時代にかけての日本のキリシタンにとって、九州が日本への入場門だったとすれば加賀は最後の砦だったのです。豊臣秀吉による追放の後、右近は淡路・小豆島・博多の能古島・島原などを流浪しました。いったん大阪に至った右近は「禄は軽くとも苦しからず、耶蘇寺(キリスト教の教会)の一ヶ寺建立下されば参るべし」と、加賀の前田利家のもとに金沢城下に赴きました。右近とその同朋たちはおそらく北陸の地にキリシタンの理想郷を夢みていたに違いありません。
加賀と南蛮文化は決して無縁なものではなく、他の藩に比べればむしろ多大の影響を受けているはずなのであり、そうした歴史背景が加賀の和菓子や甘口料理などの砂糖文化の成り立ちにも少なからず影響を持つものと考えます。
金花糖
金花糖の源流は16世紀末に長崎に輸入されたポルトガルの有平糖にある。戦前までは夏の結婚式の引き出物に、生の鯛の代用品として金花糖の鯛をつける習慣があった。今日でもお雛様のお供えに鯛・なす・たけのこ・桃などをかたどった金花糖は欠かせない。素朴でかわいい加賀の郷土菓子としてお土産物用に人気。金花糖づくりに
は純度の高い良質の砂糖と固い桜材の木型そして熟練の技術が必要と聞いた。

金沢市東山2-18-18「加賀銘菓の越野」電話076-252-1856
落雁菓子の木型
この木型から美しい砂糖菓子「落雁」が生まれる。落雁づくりは進んだ木彫技術と表裏一体のもの。瑞龍寺などの寺院建築に関った木工職人たちの技と無関係ではないという。
高岡市木舟町大野屋所蔵
高岡のキリスト教文化については飛見丈繁さんが昭和38年に発行された「越中のキリシタン」に詳しいです。 購入の申し込みなどは富山県高岡市横田町1-1-6飛見眼科医院・飛見立郎先生まで。 今回の取材では飛見先生にとてもお世話になりました。有難うございました。

 九州と北陸に共通する「甘口醤油文化」。その成立の要因となったもののひとつは「南蛮文化」「キリシタン文化」なのではないでしょうか。
加賀のキリシタンの実像については、今後の研究が待たれるところです。文献史学ではなかなか解明できない隠された歴史の片鱗を、もしかするとお醤油が私たちに教えてくれているのかもしれません。と、思ってお醤油を手にしてみるとなんだか少しいつもと違って見えてきませんか。
 さて、次回も引き続き甘口醤油のお話です。今回のお話の主人公は高山右近と加賀キリシタンでしたが、次回の主人公は富山売薬です。売薬さんと甘口醤油、どうつながりがあるのか・・・・・請う、ご期待!

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