15.済松寺建立
済松寺表門から本堂を望む
今の寺域は、本堂・庫裏・山門・位牌堂や墓地、
幼稚園を含めて約6千坪余りだという。
  寛永20年(1643)に春日局が亡くなると、祖心は大奥の総取締役(筆頭御年寄・御老女)を引き継ぎ、筆頭老中の酒井讃岐守忠勝を通称「讃岐(さぬき)」と呼ぶのに対して、「奥讃岐」と呼ばれるようになりました。将軍家光の信頼も益々あつく、将軍家昵近の侍女として重用されました。
 前田直知の逝去を機にすでに落飾し尼の姿となっていた祖心に、正保3年(1646)11月、家光は牛込村の大橋龍慶の旧址を与えました。寺地賜下の印に、家光が祖心に与えた維摩居士木像が、今も済松寺に伝わっています。そして、翌月には蔭涼山済松寺の名を与えたのです。その名には松平の松と臨済の済とを並べて繁栄を祈念し、この寺が涼しい木蔭のごとく天下の人々の救いとなるようにとの、家光の深い願いが込められたと伝えられています。
 家光は済松寺の造営を、酒井讃岐に命じました。江戸城の筆頭老中を起用するとは、家光が如何に済松寺造営を重く見ていたかがうかがえます。慶安元年(1648)には、伽藍の設計図が完成しましたが、あまりにも広大な計画が描かれており、日光東照宮の造営に巨費を費やして間もない頃とあって直ぐには着手できず、済松寺造営は2〜3年延期されることになりました。そうしているうちに家光が病で床についてしまいました。
済松寺本堂
「江戸名所図絵」に掲載されている済松寺
そして慶安4年、自らの死期を悟った家光は祖心を呼び寄せると、「余の死後、亡骸は日光東照宮に葬られるが、魂は済松寺にとどまるので供養してほしい」と遺言しました。その年の4月に家光が他界すると、翌年、済松寺には家光を祀る御霊屋が建てられました。家光の側室や家光に恩を受けた奥女中たちが皆、この御霊屋の近くに移り住み、日々の参拝を欠かさなかったといいますから、済松寺はさながら大奥OG会のような様相だったのでありましょう。当初尼寺だった済松寺でしたが、家光の魂が眠る寺を尼寺のままにしておくのは惜しいと考えた祖心は、寛文3年(1663)に、京都妙心寺雑華院から水南和尚を招いて開山とし、自らは開基となり済松寺を臨済宗妙心寺派の禅刹として起立しました。
 創立時には1万5千坪にも及ぶ寺域を誇った、済松寺の壮大な堂宇の様子は「江戸名所図絵」にも描かれています。また「図絵」の解説文は「すべて僧坊六宇、経堂・鐘楼・庫裏・浴室等、巍々然として軒を連ね輪奐たり」とその美観が称えています。
 私は先に、済松寺を訪問しました。宝暦大火、明治の廃仏棄釈による打壊し、そして東京大空襲の戦火を経験した済松寺に、残念ながら創建時の威容を偲ばせる建造物は残されていません。
済松寺庭園の中心にある鳳凰の池
『江戸名所図絵』の済松寺の絵は
前編「祖心って誰?」にも掲載されています。
  しかし、都会のオアシスともいうべき池とそれを囲む回遊式庭園は、時空を超えて祖心と私たちとをつなぐ遺産です。「江戸名所図絵」にも描かれている深山幽谷の趣きは、今日の景色にも受け継がれています。ご住職の岩田文雄さんの案内に導かれ、「蔭涼」の山号にふさわしい緑に包まれた庭園を巡っていると、新宿の街の喧騒はまるで別世界のことのようです。ご住職が「ここは、紅葉の名勝地です」と教えて下さいました。
 すり鉢型の庭園の中心にある池の名は「鳳凰池」。鳳凰と聞けば、高岡市民ならば誰でも、「鳳凰鳴けり、かの高岡に」という詩経の一説、高岡命名の由来譚を思い起すでしょう。そして、瑞龍寺(高岡市)は正保2年から寛文3年にかけて建設されといわれています。済松寺と瑞龍寺の造営がほぼ同時期になされたことに不思議な縁を感じないではいられません。「今度は、紅葉の頃に訪問させてください」ご住職にそう告げて、私は済松寺を後にしました。


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