・加賀の塩硝
ライトアップされた合掌づくり集落。かつては養蚕・和紙づくりそして塩硝づくりが五箇山の主要産業だった。
 山深い秘境・五箇山。冬景色の中、ひっそりとたたずむ合掌づくり集落。急勾配の萱葺き屋根が印象的です。中では囲炉裏を囲んで暖がとられているのでしょうか。―――
 なんだか写真をみているだけで癒されますね。下界で何が起ころうとここに影響及ばず、という気がします。
 富山の食品メーカーでは合掌造りの製造所で作ったわけでなくてもこの合掌づくりの絵を商品のパッケージに採用しているところが多いです。「味噌」「漬物」「そうめん」「おかき」「ミネラルウオーター」などなど。それだけ、合掌づくりは「ふるさと富山」を代表する建造物であり、他県の皆さんに与える印象が強いのです。

塩硝づくりの釜。
 平成7年12月、五箇山の合掌造り集落は白川郷とともに、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。かつては陸の孤島といわれた五箇山ですが、今では東海北陸自動車道の五箇山インターから約7分で行ける所となっています。ぜひ一度、富山のシンボル合掌造り集落にお越しください。下界の雑踏を忘れ、心の洗濯をしましょう。
 さて、この五箇山の合掌づくりの家では藩政時代、黒色火薬の原料である煙硝(えんしょう)が秘密裡に製造されていました。(加賀藩では「塩硝」の字を使っていました。)製造された塩硝は「塩硝の道」とよばれる険しい山道を人力や牛を使って輸送され、全て殿様のお膝元である金沢へと届けられていたのです。「塩硝の道」は地図にも書き記されない秘密の輸送ルートであったそうです。五箇山そして白川郷の塩硝づくりは加賀藩が300年間以上にもわたって行ってきた藩の直轄事業でした。加賀の塩硝は「日本一良質である」とされていたそうです。人里はなれて外界から隔離された山間の村は、藩が主導する煙硝の密造には好都合の場所だったのです。
  この塩硝づくり、山村生活の廃棄物と「発酵」の力をうまく利用したものです。作り方は次のとおりです。
堆積 いろりの炉端の両側に長さ2間(3.6メートル)、
幅3尺(90センチ)、深さ1間(1.8メートル)の溝が
炉端に沿って掘ってある。この溝に原料を入れる。
 @ カイコや鶏の糞を混ぜた土壌
 A そば殻やヨモギ ・麻の葉を干したり蒸したりしたもの
 B @の土壌
 C 人尿
 D 土     
の順に何層にも積み重ねて床の間際まで積む。
貯蔵発酵 いろりの熱のもと、4・5年の長い年月をかけて発酵させる。年に1度掘り起こし新しい空気に触れさせ、混ぜ合わせる。@からCを足してまた土をかぶせて埋める。これを繰り返しできたものを「塩硝土」という。
塩硝抽出 「塩硝土」を桶に入れ水をかけ、一昼夜おく。塩硝の水溶液を抜取り塩硝釜で煮詰める。草木灰を加え濾過。濾過液をさらに煮詰めて塩硝を凝縮していく。最後に自然乾燥して結晶を得る。これが「灰汁煮塩硝(あくにえんしょう)」。塩硝は金沢に運ばれ硫黄・木炭と配合され黒色火薬が製造されていた。
 塩硝づくりは堆肥づくりの応用です。堆肥づくりの中に「化学」を見出し、塩硝づくりの手法を完成された先人の知恵は感嘆するに余りあります。他藩の塩硝づくりが「古い家の縁の下から自然発生したものを採集する」というものであったのに対し、加賀藩では「人為的に塩硝を製造していた」のです。
 明治中期に安価なチリ硝石が輸入されるようになって以来、五箇山で塩硝づくりは消滅しましたが、鉄砲伝来の時代に端を発するといわれる五箇山の塩硝づくりは、加賀藩の発酵産業がいかに発達し、高いレベルにあったかを今に伝える記憶のひとつです。
塩硝
 また、現在、「消費型社会」の反省から「循環型社会」への立ち戻りが提唱されていますが、この塩硝づくりも自然循環システムに支えられた産業でした。合掌づくりの屋根の葺き替えが終わると、古いかやは桑畑の肥料になります。桑はカイコのえさになります。カイコのはいた糸は美しい絹糸となり織物に仕立てられ、カイコの糞は塩硝づくりに利用されます。自然からの恩恵に感謝し、自然と共存してきた、五箇山の人々の慎ましくも賢い生き方に感心させられますね。
〒933-1973
富山県東砺波郡上平村菅沼
五箇山民俗館 電話 0763-67-3652
塩硝の館   電話 0763-67-3262
塩硝の館では塩硝の製造方法をミニチュアの人形や影絵などでわかりやすく説明しています。


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