(ウ)タプタプの塩くど味噌のルーツ
 慶長6年(1601)年に佐渡・相川で金の大鉱脈が発見されました。しかし、それ以前からすでに佐渡のゴールドラッシュはあったようです。
 慶長4年(1599)前田利家が佐渡への渡海禁止令をだしています。「佐渡に金山ができて以来ほりこたちがたくさん佐渡に集まっている。渡海しようとするものには越後一人10貫目、能登・越中一人5貫目の罰金を課す。故郷の田畑を打ち捨てて、金山堀に渡っていくことは卑怯なことだ。いっさい、禁止する。」というものです。「佐渡で金が出た」との情報をいち早くキャッチした越後・能登・越中の農民が多数、農耕を放棄して黄金の夢を求め佐渡へと海を渡っていたのでしょう。このゴールドラッシュで佐渡の人口は飛躍的に増えたといいます。このような人の大量の移動は、食文化に大きな影響を与えるものです。こうした例には、能登・越中そして佐渡の味噌の類似の原因を考えるためのひとつの答えがあるように思います。しかし、3つの地域の味噌の類似を決定付けている要因は「佐渡のゴールドラッシュ」だけではありません。
 最も重要な要因。それは海を舞台として活発に行われていた海上交易です。
 近世から明治・大正にかけての北前船の活躍はあまりに有名です。北海道―日本海沿岸―瀬戸内海―堺・大阪までを往復し、はたまた太平洋沿岸や九州にもルートを延ばして、多くの物資を運搬するとともに文化・情報を伝播しました。
北前船絵馬 海上では板子一枚の下は地獄。航海の無事を願ってたくさんの絵馬が神社に奉納された。北前の男たちは、海に出る前には必ず神社へのお参りし身を清めた。神に命を預けての出航であった。
伏木北前船資料館蔵
 富山の呉羽丘陵に「五百羅漢」とよばれる石仏群があります。石の羅漢様が500体以上も並んでいます。足を運ぶと石仏様たちの柔和でユニークな個々の表情に心和みます。ここは立山連峰を一望できる丘陵にあり、富山県内でも屈指の景勝地です。晴れた冬の日などここに立つと、青く澄んだ空と白銀に輝く立山連峰との鮮やかなコントラストに胸を打たれます。羅漢様たちは、立山の屏風絵を眺める様にしてこの地に立っておられるのです。そして立山連峰から視点を左に移せばそこは荒波で知られる日本海。
 この「五百羅漢」の重い石仏たちはこの日本海を隔てた佐渡で作られ富山に運ばれてきたということをご存知ですか。富山の北前商人・黒牧屋善次郎の発願で1799年から1849年の50年をかけて運ばれたといいます。石仏の奉納者の名簿には越中富山の商人が圧倒的に多いですが 中には松前(北海道)・越後(新潟)・佐渡・能登・加賀・江戸・飛騨高山・尾張・京都・摂州(大阪)・伯耆(鳥取)・紀州(和歌山)・薩摩(鹿児島)の人の名もあり当時の北前交易の広さを知ることができます。また廻船商人だけでなく仏門者、武士、女性の名も見られます。航海無事の祈願。海難事故で命を落とした者への哀悼。そして自らの行いに対する懺悔。石仏の奉納は人々の様々な気持ちの表れです。
廻船商人黒牧屋の主導力・統率力にも驚きますが、当時の人々の篤い信仰心にも感 心してしまいます。重い石の羅漢様を船で佐渡から岩瀬の湊へ。そして神通川の水路を利用し続いて陸路へ。陸路は人力による運搬でした。困難を押しての石仏の運搬は、仏への深い信仰心がなければ到底できないことです。そして、佐渡から富山への運搬航路は、従来から頻繁に利用されていた交通網を利用しての運搬だったのでしょう。近世の佐渡は「島流しの地」「金山の島」「閉ざされた島」との印象が強いです。しかし、佐渡は北前船航路の湊のなかでも松前(北海道)や青森へ向かう中継地として重要な海上交通の要所でした。佐渡は「海の駅」「海の交差点」というもうひとつの顔を持っていたのです。呉羽丘陵の五百羅漢は、富山と佐渡とが海上交易によって密接につながっていたことを今に伝えるひとつの遺産です。  
たくさんの羅漢様のお顔の中でふと目が止まると、家族や知人そして自分によく似た顔をなさっていたりするので不思議。
 江戸時代、能登半島を含む富山湾沿岸と佐渡ヶ島は、「千石船」と呼ばれた北前の大型船のほかに小型船―「地方(じかた)船」「小回り船」でも密接に結ばれ、ひとつの商業圏を作っていたといいます。氷見・伏木・放生津・岩瀬・水橋・魚津など富山湾沿岸の各港からは、能登通い佐渡通いとよばれる船が出て、富山湾を頻繁に往来していました。富山からは主に米が出津し、能登からは塩・杉材木・炭・瓦・石材などが、佐渡からはムシロ・縄・松材木・石材などが富山に入津していたとのことです。
 この小型の地方船は帆船から汽船に姿を変え、昭和30年代までその活躍が見られました。高岡市内でも千保川から富山湾にでて能登を往復する汽船で運送業を営む方がつい20年ほど前までおられ、汽船は「ポンポン蒸気」の名で親しまれていました。能登の珠洲港と佐渡、富山県の岩瀬港・伏木港を結ぶ定期船は近年まで運航されていましたが、利用者が減り残念ながら現在は廃止となっています。
 富山県内には「能登さん」「能登屋さん」「佐渡さん」をはじめ 「七尾さん」「七尾屋さん」「相川さん」など能登・佐渡の地名の名前の方が多数おられます。この方たちのお名前は出身地に由来する場合ありますが、先祖が能登通い・佐渡通いの廻船業を生業としていたことに由来する方も多いようです。
 こうして見てくると富山と能登や佐渡が随分と身近に思えてきました。能登や佐渡が、富山県人にとって遠い土地になったのは、近年「自動車社会」になってからのことなのかもしれません。それまでは、富山湾を介して頻繁に往来のある親しい土地だったのです。
 能登・佐渡・富山は方言もよく似ています。「おらっちゃ」(ぼくたち)「せんでもイイちゃ」(しなくていいよ)など 富山弁に特徴的な「ちゃ」が能登・佐渡でも使われていることは、なんだかうれしくなってくるものがありますね。ほかにも共通する方言は多く書ききれません。
 また、伝統的な延縄定置網(はえなわていちあみりょう)による漁法は、富山・能登・佐渡にまったく共通のものであり、漁具の形や名前などにも多々一致が見られるとのことです。当たり前のことですが「天然のいけす」富山湾は能登・佐渡・越中の漁師方たち共有の稼ぎ場です。海に藩や県の境線などはないのです。
 海は人と人とを隔てているのではなく、人と人、町と町、文化と文化をつないでいたのです。他の米こうじみそとはタイプの違う「タプタプの塩くど味噌」は「天然のいけす」を介した広域圏に分布する味噌でした。「タプタプの塩くど味噌」は、富山湾でとれた新鮮な魚と相性のよい味噌として能登・佐渡・越中に定着したのです。
たらのみそ汁
たらの白子のみそ汁
 さて、どこが「タプタプの塩くど味噌」の元祖なのでしょう。海の交差点「佐渡」? 米どころ「富山」?それとも能登塩の生産地「能登」?はたまた貸釜の本拠地、鋳物の「高岡」?ということになると、卵が先か、にわとりが先か、って話になってしまいますね。食文化は各地域の相互関係により構築されるものでしょうからどこが元祖という議論はナンセンスかもしれません。
七尾城は戦国時代以前に北陸一円に勢力を持っていた畠山氏の居城。難攻不落の名城としてしられた山城。七尾城址から七尾湾、その先に広がる日本海を見下ろしていると、畠山氏の海洋支配の姿が彷彿としてくる。北陸に味噌の製法が普及したのは前田氏による支配以前のことなのかもしれないと、思いながら畠山氏が築いたという石垣をカメラに収めた。
 それでも、さらに興味を引かれるのは「佐渡のみそは出雲の神様、五十猛の命が伝えた。」という伝説が佐渡の羽茂町に残っているということです。と、なるとルーツは富山湾広域圏を飛び越え、神話の国出雲なのでしょうか?!出雲地方に「タプタプの塩くどみそ」が存在するのか調べてみたいものです。江戸時代、佐渡金山からの金を一手に受け入れていた港は新潟の「出雲崎」でした。「出雲崎」がいつからある地名なのかわかりませんが、佐渡のすぐそばに「出雲」の名があるのが気にかかります。また、出雲から北陸・佐渡へのルートは鉄鋳造や錬金技術の伝播したルートとも一致し興味深いことだと思います。
 日本海沿岸の町々には、北前船航路が確立するずっと以前から海洋による交流がありました。古代における日本海交流の事例としては、出雲市の西谷3号墓遺跡から北陸の土器が出土している例や出雲風土記のなかに能登半島の珠洲から土地を引っ張ってきて 出雲の地の一部としたと、「国引き神話」がある例などがあげられるでしょう。
また、中世の説話として有名な安寿と厨子王の「山椒大夫」では、話の舞台が直江津・親不知・舞鶴・筑紫そして佐渡と日本海沿岸をダイナミックに移動しており、このことなども中世における日本海航路の証かと思われます。
 そして、日本海交流は 北前船の出現によってさらに確固たるものになりました。北前船による交易は江戸中期に始まり明治大正の時代まで続けられました。 「タプタプの塩くどみそ」は長い年月により培われた海洋交流のひとつの産物です。何度も繰り返しますが、海は人と人とを隔てるものではなく、人と人とをつないでいました。富山の地みそのルーツを探ることは、藩や県のセクトに縛られない広域商業圏・文化圏を知ることにつながっていたのです。

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