高岡城と高山右近
高岡城ができたのは、今から400年ほども前の慶長9年(1614)。藩政時代の270年間は、加賀藩高岡奉行の管理下に置かれ、ほとんど手付かずのまま明治の時代を迎えた。民間への払い下げが決定していた高岡城址であったが市民の強い反対運動が起こった。服部嘉十郎・鳥山敬二郎らの献身的な働きにより、明治8年払い下げは取止めとなり「高岡公園」として正式に認定された。
 これは、古城公園の略図です。とても、面白い形をしているでしょ。四角いブロックを2列に並べ土橋でつないだのが高岡城の特長。城郭の中ではとても珍しいスタイルです。そして、全体の3分の1の面積を占める大きなお壕、これも初めて見る人には驚きです。「なぜ北国の田舎町にこんなものが・・・」と思ってしまいます。
高山右近像
 大手門を入ると、先ず銅像が目に留まります。銅像のモチーフは高山右近。傍らに立てられている高山右近顕彰碑には次のように書かれています。
「高山右近(1552−1615年)諱は長房、通称右近太夫、洗礼名はジュースト、茶道では南坊と号した。
 織田信長、豊臣秀吉に抜擢され明石12万石の大名となり、切支丹禁令を拒否して追放されたが、細川忠興の斡旋により秀吉の内諾を得て加賀藩に1万石以上の高禄で迎えられた。前田利家、利長は茶聖千利休門下で南坊と相織り、無二の知友であった。
 高岡市の開祖 利長公が隠退後の慶長14年に築いた高岡城は、築城の名手右近が縄張りをした。独創遠大な構成で、江戸城・大阪城に比肩すると評される名城である。
 公は天下大勢を洞見し、徳川、豊臣の抗争再燃を憂慮して、万々一の有事に備える深謀の築城であった。
徳川幕府の禁教令は愈々厳しく、慶長19年正月右近は国外追放となり、在籍26年の恩遇を深謝して告別した。11月ルソンに渡ると大歓迎を受け、令名はスペイン、ローマまで轟いたが、間もなく悪疫に冒され翌年元和元年正月、数奇多難の生涯を終わった。」と簡潔に右近の生涯を紹介しています。そしてさらに続けて、
「高岡市民は、利長公と高山右近、異体同心の苦衷を偲び敬意の至情は綿々子々孫々に及んで永遠不滅である。」
と結んでいます。彫刻家西森方昭氏の右近像も素晴しいですが、格調高く右近の生涯を謳いあげたこの顕彰碑の碑文もまたすばらしいですね。高岡市史編纂委員で郷土史家の和田一郎さんによるものです。  
※明石領の封は6万石とする説もある 
しかしながら、「敬意の至情は綿々子々孫々に及んで永遠不滅」とされているにもかかわらず、我が町高岡の人の中には、
「高山右近の名前は知っているが、何をした人なのかよく知らない。」
「何で高岡に来たがけ?」
という人が多いのです。そして、
「永遠不滅ちゃ、あんた、巨人軍やろ。長嶋はんに、はよ元気になってほっしいちゃね。(長嶋さんに早く元気になってもらいたいね)」
という人も私の身近にひとりおりました。これも、とほほ・・・。
 実のところ、かく言う私も今回、調べてみるまで高山右近をあまりよく知らなかったのです。キリシタン大名で、高岡城の築城に関ったということぐらいしか・・・、悪しからず。
 ここで、高山右近について調べたことを、ちょっと。
1552年に摂津高山で生まれた高山右近は、キリシタンであった父高山飛騨守(ひだのかみ)の影響を受け少年の頃すでに受洗、洗礼名ジュストと名づけられました。高槻領主であった父から家督を譲受け 高槻の領主となった右近は父や宣教師らとともに領内での布教活動に尽力し多数の信者を得ました。築城においても高い能力を発揮、右近の築いた高槻城は難攻不落の名城と評されました。のちに転封により明石領主となりましたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が発令された際、キリスト教の熱心な信者であり、布教活動に大な力を発揮し、また外国人宣教師と密接な関係を持っていた右近は、秀吉から強く棄教を迫られました。しかしそれに応じなかった右近は、領地を没収され大名の地位を追われました。領地を離れ家臣や信者とともに流浪の身となっていた右近は一時小西行長(こにしゆきなが)の領地に匿われます。が、翌年天正16年、前田利家の誘いに応え、豊臣秀吉の許可を得て加賀藩へと赴きました。右近が流浪の身から加賀藩のお抱えとなった蔭には、碑文にもあるように親友細川忠興(ほそかわただおき)の口添えがあったとも言われています。この時、利家が右近に申し出た禄高は3万石とも2万5千石とも2万石とも。これは、高禄ぞろいといわれる加賀藩家臣団の中でも高禄であり、右近は大変な重要ポスト、言わば家老扱いで加賀藩に迎え入れられたのです。その後右近は、徳川幕府が発令した後に「キリシタン禁教令」(1615年)によってマニラに追放となるまでの26年間を加賀藩で過ごすこととなります。加賀藩における右近の宗教活動については定かではありませんが、金沢や能登には教会が建てられ、武士・町人を中心に多数のキスリト教信者がいたと言われています。
加賀藩において右近が果たした大きな業績として、小田原攻めや関が原の合戦では戦術顧問としての貢献が大きかったこと、金沢城を攻防性の高い城郭に修築したこと、そして高岡城築城で縄張りを任せられたことが挙げられますが、その中でも高岡城の築城は、右近の最も大きな任務といえるのではないでしょうか。「無二の知友」利長のため、また加賀藩のため精一杯に務めた右近であったと思います。高岡城築城の時、利長は48歳、右近は9歳年上の57歳でした。人生50年とも言われた時代に57歳で携わることとなったこの大事業は、右近にとって「生き抜いてきた人生の証」であったのかも知れません。
以上が、高山右近の駆け足紹介。
続いて、右近がプランニングをしたという高岡城についてお話しますね。
高岡古城公園、遠方に守山城のあった二上山を望む
高岡開町以前の姿を書きとどめた 関野之古図
関野は千保川の氾濫源であった。中州が目立つ
 慶長3年(1598)利家から家督を譲られた利長は、在位7年目にして早くも義母弟の利常に封を譲り隠居しました。慶長10年(1605)隠居の際し、富山城を居とした利長でしたが、慶長14年(1609)3月、町からおこった火災は立山おろしの強風にあおられ富山城にも及び城は消失。利長は、魚津の仮居へと逃れました。日を待たず4月には、当時「関野原」と呼ばれていた荒地に築城と町作りが始められたのです。
 高岡城の築城工事が始まったのは慶長14年(1609)の4月。それから半年あまりを経た9月13日に、利長公は、高岡城に入りました。ですから、わずか200日ほどの工期のうちに高岡城を築き上げたということになります。驚くべきスピードですね。「ホンマかいな」という気もしますが、高岡に残る古文書の中には、利長公の高岡入城をさらに早い8月とするものもあるくらいなのです。
 高岡城の建造物は元和元年の一国一城令のよって、破却の運命となりましたが、その広大な土塁や水濠は加賀藩高岡奉行の管理下で引き継がれ、明治以降も高岡古城公園となって、築城当時の形をほぼとどめたまま保存されています。築城当時の石垣の一部や井戸なども残されていますよ。
民部の井戸
総面積約21万uは、東京ドームの面積(46,755u)の約4.5倍です。うち約3割を占めるといわれる深く広いお濠は、満々と水を蓄え今も見るものを圧倒します。高岡の古老の中には、このお壕のことを「たとえ日照りが続いて日本中の水が枯れても古城のお濠は枯れることがない。」「大雨が降ろうが、旱魃になろうが、お濠の水位は一定に保たれている。」「枡形のお濠はたいへんに深く、お光という娘が龍となって水を守っている。」「お壕の深さは尋常なものではない。底は地球の裏側に達していて、昔お壕を掘っている時、『それ以上掘っては危ないぞ』と地下から地球の裏側の人の声がしたそうだ。」と、まことしやかに語って聞かせる方もおられるのです。地下からは、ポルトガル語でも聞こえたのでしょうかね・・・。

お壕の水位は年間を通じてほとんど変化はない。
これも不思議のひとつ。
「高岡城略図」『たかおか−歴史との出会い−』より
 お濠の水源は長く謎とされてきましたが、現在では庄川の伏流水が水源であると考えられています。高岡城を描いた古地図の中には、お壕の中で最も深いと言われる枡形壕(ますがたぼり)の中に3つの井戸が書き込まれているものがあるそうです。その「3つの水中井戸」が高岡城のお壕の湧水源なのでしょうか。この枡形壕の水位は、高岡市民会館側の池之端(いけのはた)のお壕より3.7メートルも高くなっているとか。ここにも高山右近の高度な治水技術や井戸掘りの技術が駆使されたのでしょうか。
 高岡の町が築かれた関野ケ原は、千保川の氾濫が生み出した河岸段丘と中州の土地でした。あちらこちらから、こんこんと湧き水があふれだして沼地を成し、そこに当時は大河川であった千保川も流れ込むような地形です。地下を流れる伏流水をせき止め高岡城のお濠にプールすることで治水の意味も兼ねていたのではないでしょうか。お濠は、敵の侵入を妨げる城塞の一部であり、また高岡を水害から守る「地下水のダム湖」のような役割を果たしていたのだと思います。
 お壕の水は高岡城築城以来、一度も抜取られたことも枯れたこともないのでその全容は解明されませんが、まだまだ秘密はたくさん潜んでいそうですね。古城のお壕はとても神秘的です。
深い緑に囲まれたお濠 朝陽橋を望む
金沢城古図 慶長年間の様子を伝えるもの。一向宗徒の拠点金沢御坊を前身としている。渦巻き式築城。
 高岡城の城郭の規模は金沢城のなんと二倍です。その築城様式は従来の平城に典型的な輪郭式や渦巻き式を踏襲するものではなく、四角いブロックを二列に長く配置した斬新で独自性の高いもの。他に、このような様式の城郭はないそうです。言うならば、「高山右近様式」とでも名づけるべき独特の設計により作られたわけです。家督を譲り藩主の座を退いた前田利長が隠居城として築いたといわれていますが、本城の金沢城の規模をはるかにしのぐ城を単なる隠居の場として築くはずもなく、有事に備えた城塞として築かれたに他なりません。
 特に南東の越後側からの攻撃に対する防衛を第一と考え、先ず城外の中川村に武家屋敷を置いて第一の攻防、次に地球の裏の声が聞こえるという深い壕を置いて第二の攻防、さらに三の丸・明き丸・鍛冶丸を一直線に配置して第三の攻防、またさらにそのうち側にも壕を設けて4段構えの攻防で本丸を防御しました。南西・北西には城下町を設けて敵の侵入を妨げ、城郭には2重の濠と高い石垣を巡らせました。北側の天守閣を設ける予定であった箇所の壕は一重ではあるものの、その幅が特に広く取られており、100メートル近くもあります。また、本丸は城郭の中でも最も高く土盛りされた高台となっていました。お濠の外から天守閣へ火縄銃の弾薬がけっしてとどかぬように設計されていたのです。北東側は濠を設けませんでしたが、これには訳があって、この方角には騎馬や兵の進行を阻む泥沼が広がり天然の砦となっていたのです。
 これが、築城の名手高山右近の考案による「深謀の城塞」です。
慶長17年(1612)「高岡御城景台之絵図」写し 高岡市蔵
破却以前の様子を伝える貴重な史料。高岡城は高山右近が残したタイムカプセル。
 上の地図をよく見ると本丸の北隅には、出っ張りがあります。ここは、天守閣と隅櫓を置くための場所だったそうです。今ではビル街が視界をさえぎっていますが、かつてはここから二上山の守山城や守山の町や伏木湊までを一望に出来たといいます。この場所には現在、乗馬姿の前田利長像が建てられていますので、高岡古城公園をお訪ねの際にはぜひともお立ち寄りください。
 着工から利長の入城までは200日。この短期間に高山右近は、類なき斬新な城郭を設計しおおよその完成をさせたと伝えられているのです。神業と言うしかありません。或いは、右近の中には高岡城縄張りの使命を受ける以前から、長年その懐で温めてきた理想とする城郭のプランがあり、すでに綿密なシュミレーションができていたのかもしれませんね。
本丸に建つ前田利長像
なまず兜を冠して。なまずは地をも揺るがすとして縁起を担いだデザイン。


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