ロダンに認められた、本保義太郎
若菜売り 本保義太郎
高岡市立美術館所蔵
『高志の華』より転写

 ロダンに認められた最初の日本人彫刻家は誰かと尋ねられれば、多くの人は、 「それは荻原碌山(おぎはらろくざん)だ」と答えるでしょう。
碌山は、彫刻家ロダンの「考える人」との出会いによって彫刻に目覚め、ロダンの影響を強く受けた彫刻家です。「日本のロダン」「東洋のロダン」と称される碌山作品こそが、日本の近代彫刻の曙であると考えられています。
 しかし、その碌山よりも早くに、ロダンと出会いその才能を認められた日本人がいたのです。それが、高岡の仏師本保屋一族の血を引く本保義太郎(ほんぽぎたろう)でした。にもかかわらず、本保義太郎の名が、ほとんど知られていないのは残念なことです。
 本保義太郎は、明治8年(1875)に源平板屋町の仏師本保屋に生まれました。先の「夜明け前」の章でも触れましたが、本保屋は幕末から明治後期にかけて活躍した木彫を生業とする一族で、本保兵蔵と、彼の腕利きの5人息子たち喜作・兵右衛門・義平・兵吉・吉次郎が、高岡とその周辺の木彫の仕事を一手に引き受けていました。その全盛期は明治後期でした。義太郎は、喜作の長男として生まれています。父喜作は、先に見た高岡関野神社の随臣像や、通町高岡御車山の布袋像の作者です。
 本保一族の一員として彫刻を始めた義太郎が、その卓越した才能を現し始めるは明治26年(1893)、わずか18歳のときのことで、アメリカのシカゴで行われたコロンブス博に仏像を出品し、みごと受賞を果たしています。しかし、天賦の才に恵まれた早熟の仏師は「お家芸」の継承にとどまることなく、西洋彫刻の道を歩むことになります。
 義太郎は、明治28年に富山県工芸学校が高岡に設置されると同時に入学し、翌年卒業すると東京美術学校に進学、2学年に進級するときには特待生の待遇を受けています。明治33年には高村光太郎ら有志とともに「青年彫塑(ちょうそ)会第一回展」に出品、翌34年には東京美術学校彫刻科を卒業しました。このとき卒業制作に作られたのが、高岡市立美術館に所蔵されている「若菜売り」です。35年には同校彫刻研究科に進学し、36年には日本美術会の会員になっています。春子と結婚したのもこの年のことでした。若き彫刻家義太郎の人生は、順風満帆であったと言えます。
 一方、高岡の本保屋一族の活躍もこの頃に最盛期をむかえていました。高岡関野神社随臣像、国泰寺金剛力士像といった大型彫刻が彼らの手で製作されたものこの頃のことです。義太郎にとって、本保屋の人々からの期待と自らの血統への高い誇りは大きな支えでした。
そんな義太郎に海外雄飛のチャンスが訪れます。明治37年にセントルイス万博の商工調査を委嘱されてアメリカに渡る機会を得たのです。渡米した義太郎は、ニューヨークで彫刻家ボーグラムに入門し助手を務めながら彫刻研究を深めました。さらに、明治38年には農商務省より「海外実業練習生」に命じられ月額60円を給与されることになりました。義太郎はニューヨークから、憧れのパリに渡りました。明治38年10月にニューヨークを出航した義太郎は、11日間の船旅を経てベルギーのアントワープを経由しパリに入りました。この時、義太郎は30歳、初めてパリの地を踏んだ彼の心の高揚はいかばかりであったでしょうか。北陸の小都市高岡の仏師の家に生まれた青年が、とんとん拍子の栄進の末、国際的な芸術の都へと飛躍したのです。
 パリでの義太郎はフランス国立美術学校彫塑科に入学し、製作と研究とに励む一方、ルーブルやリュクサンブールの美術館に通って西洋美術の殿堂を堪能し、充実した日々を送っていたようです。当時パリに滞在した10数人の日本人美術学生や学者や貴族とも義太郎は交流しました。その中には、荻原碌山(守衛)の姿もありました。
反面、義太郎の経済状態は大変に苦しいものでした。ひと月の家賃だけで日本円の160円分であったというのですから、国からの給付金60円では家賃すら賄うことができなかったのです。
 渡仏から約一年半を経た明治40年4月、義太郎のもとへ大変な朗報がもたらされました。義太郎の彫刻作品が彫刻家ロダンの眼にかない、日本人の彫刻作品でははじめてサロン展に出品されることが決まったのです。サロン展出品を果たした義太郎は、パリの日本人美術学生の羨望の的でもあったでしょう。義太郎は人生の頂点に立ちました。しかし、そのわずか半年後の10月18日に、義太郎は32歳の若さでパリに客死しています。  
荻原碌山
 義太郎は明治41年の早春には帰国する計画でしたが、彼が生きて故郷に帰ることはありませんでした。高岡で息子の訃報を受け取った父喜作の絶望は計り知れません。本保屋の期待を一身に背負っていた義太郎の死は、一族の悲劇でした。奇しくも、仏師本保屋の生業はこの頃から衰退の兆しを見せ始め、高岡における彫刻制作は「仏師」から「原型師」へと譲渡されていきました。
 明治41年の3月、或るひとりの彫刻家が、パリから日本に帰ってきました。荻原碌山でした。帰国後の碌山が製作した『女』など10数点の作品が、日本の彫刻界に大きな衝撃を与え、日本におけるロダニズム彫刻の金字塔となったことは周知のとおりです。その碌山も帰国わずか2年後に急逝しています。

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