高岡銅器の恩人、大塚楽堂
 明治初期の高岡の銅像は小さな木像の原型を手本に、鋳物職人の勘によって拡大して造られていました。よって、原型に忠実な銅像には出来上がりませんでした。この時代の銅像の原型師の名が後世に残されておらず、ただ鋳物職人の名のみが伝わっているは、原型がそれほど重視されず鋳物職人の鋳造技術に頼るところが大きかったからです。
 しかし、明治27年(1894)に富山県工芸学校が設立されると、近代的な彫刻技法で原型をつくり、込め型鋳造によって原型そのままの銅像を作る技術が高岡に導入されました。
 大塚楽堂(おおつかがくどう)は、高岡に本格的な彫刻原型の技法をもたらした最初の人でした。高岡鋳物において、写実性に優れた人物像の製作は、大塚に始まるといっても過言ではありません。大塚が原型を製作した氷見朝日山公園の神武天皇像と、金沢兼六園の日本武尊像を見比べればその違いは瞭然です。
氷見朝日山公園神武天皇像
大塚楽堂作

 大塚楽堂は本名を秀之丞(ひでのじょう)といい、明治3年(1870)に山口県に生まれました。石川県の九谷焼で陶器原型の指導にあたっていましたが、明治27年の富山県工芸学校開校とともに金工科の教師として高岡に赴任し、以来大正6年(1917)退職までの24年の間に多くの後進を育てました。また、大塚が、明治34年(1901)に設立された高岡金工会の初代会長を10年務めたことも特筆すべきです。高岡金工会は、金工に携わる高岡の青年たちの自主的な研修団体で、図案やデザインの研究会やコンクール、有識者を招いての講演会などを開き自己研鑽を積みました。大塚楽堂は、青年たちに啓蒙を与え、また良き理解者として支援しました。大塚が今日にいたっても「高岡銅器の恩人」と讃えられる所以です。
 彼の作品は、戦時中の金属供出でその多くが失われましたが、代表作の氷見朝日山公園の神武天皇像のほか、福井市足羽山公園の橋本左内像、兵庫県三田博物館の九鬼隆一男爵像、兵庫県高砂神社の工楽松右衛門像、京都市伏見乃木神社の村野山人像、青井記念館蔵「老人」などが有名です。

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