躍動の明治

 高岡の銅器問屋は、江戸時代末期すでに海外輸出に眼を向け、横浜を拠点に貿易の途を開いていました。明治初期には、主に銅器問屋たちがアートディレクターとなって図案や品質に改良が加えられて優れた作品を生み出すに至り、その成果は、明治6年(1873)のウイーン、同10年の第一回内国勧業博覧会、明治9年のフィラデルフィア、11年のパリ、18年のニュールンベルグなど各地の万国博覧会で、高岡銅器の製品が博した高い名声となって現れました。その背景には、明治維新を機に職を失った加賀藩お抱えの象嵌職人や富山藩お抱えの刀金工職人が、続々と高岡に移住し象嵌や彫金の技術を伝え、高岡銅器の表面を装飾する意匠が格段に緻密で華やかに変化したという事情もありました。

菊花文飾壺 
林忠正 考案注文
パリ万博出品作品
高岡市文化財

 また、この頃の動向として、高岡銅器の前途に的確な助言を与えた美術商林忠正(はやしただまさ)の存在も特筆されるべきです。林忠正は日本の美術工芸品や浮世絵などを海外に輸出し、当時ヨーロッパで巻き起こったジャポニスムの一大ブームの「仕掛け人」として活躍しました。その一方では、印象派の絵画を初めて日本に紹介するなど、国内における西洋美術の普及にも尽力しました。
 パリ在住の林忠正は、明治19年、高岡の銅器職人から、高岡銅器が輸出不振を如何に脱すべきかとの問いを受け取り、これに「高岡銅工二答フル書」と題する長文の手紙を送りました。日本製品が珍しがられ人気を博していた横浜貿易時代はもはや過去のことである、輸出不振は高岡銅器だけの問題ではない、これからの日本の工芸品は、日本の古典的図案の模写から脱却すべきだ。西欧のどのようなところで、どのように使われるのかをよく研究し、西洋人の生活空間を豊かに飾るような新たなスタイルの工芸品を考案することが肝要。ただ立派なものを作れば売れるといった独りよがりに陥らず、買い手の「用」を考えるべきだと伝えました。
 上の菊花紋飾壺は林が明治20年前後に高岡に発注した銅器の壷で、林の思想を具現した作品の一つとされています。菊花は古典的な日本のモチーフではありますが、菊花で壺全体を埋め尽くした豪華なデザインには、西洋人の「用」が強く意識されています。この壺はイギリスの美術収集家が所有していたものを昭和55年頃に国内の古美術商が買い戻し、現在は高岡市在住の個人コレクターによって所蔵され、東京国立近代美術館に寄託されています。ちなみに、同様の菊花紋様の高岡銅器製花瓶が,当時米国人の富豪家によって購入され,現在はアメリカのボルチモア市にある THE WALTERS ART GALLERY に所蔵されています。林のねらいが見事にヒットした具体例でしょう。
 さかんに行なわれた海外輸出を背景に、高岡の鋳物業界では西洋の工芸品や美術品への関心が高まりました。しかし、銅像への関心は依然として低いままでした。
 いわゆる銅像彫刻はもともと日本にあったものではなく、西洋から輸入されたものです。日本の彫刻美術の歴史において、明治の西洋彫刻の受容は、飛鳥時代に日本人が仏像彫刻を受容して以来の大変革であったとも言えます。日本にはじめて西洋の銅像彫刻を伝えたのはイタリア人の彫刻家クラーザです。彼は、明治9年(1876)に設立された工部美術学校で6年間にわたり教鞭をとりました。クラーザの門弟で同校彫刻科に第1期生として入学した大熊氏広(おおくまうじひろ)は、卒業後さらに彫刻技術を高めるためにヨーロッパ留学し、ローマ美術学校で学びました。そして、帰国後の明治21年(1888)、大熊は九段靖国神社の大村益次郎像を作りました。明治13年(1880)に高岡の鋳物職人たちの手によって鋳造された日本武尊像と大熊の大村益次郎像とを見比べるとその差異は圧倒的です。高岡の銅像づくりは中央から大きく引けをとることになりました。
 高岡の銅像産業の樹立に、もっとも大きな影響を与えたのは、明治27年(1894)桜馬場(さくらばば)に設立された富山県工芸学校です。初代校長の納富介次郎(のうとみかいじろう)は、日本に独創性のある美術工芸品を育てるには工芸・工業教育を行う公的機関が必要と考え、明治20年に金沢、同27年に高岡、同31年に高松、同34年に有田に工芸学校を設立し、地場産業と教育を結ぶ工芸・工業教育に尽力した人物です。納富のような大物校長を得て創立された富山県工芸学校には優秀な教師陣が集まり、彫刻・鋳金・漆芸・デザインに次々と改良が加えられました。高岡が銅像の町として歩み始める出発点はこの富山県工芸学校にあったのです。


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