日本最古の銅像 日本武尊像
兼六園日本武尊像

 高岡の銅像を語るときに、まずお話したいのは金沢兼六園の真ん中に建っている「明治紀念之標(めいじきねんのひょう)」通称日本武尊像(やまとたけるのみことまたの名を金仏(かねぶつ)様)です。「明治紀念之標」は、明治10年(1877)の西南戦争で戦没した石川県の兵士400名を慰霊するために建てられました。日本武尊が天皇の血を引く人物であったためか、戦時中の金属供出を免れ、戦後は進駐軍に「軍国主義的だ」と撤去の指示を受けましたが、金仏様は仏であると言って食い止め今日に至っています。誠に運のいい銅像といわねばなりません。
 この像は、世に「日本第一号の銅像」として知られています。九段の大村益次郎像が明治21年(1888)、上野の西郷どんが明治30年の完成ですが、日本武尊像はそれよりさらに早く、明治13年(1880)に高岡の鋳物職人たちの手によって鋳造されました。金屋町の喜多万右衛門(きたまんうえもん)家工場(今の釜万鋳造所)で鋳造され、千保川から船で金沢に運ばれたとも、倶利伽羅(くりから)峠を越えて運ばれたとも、頭・手・足は高岡で鋳造して金沢に運び胴体は「出吹(でぶ)き(職人が出張し現地に吹き場を築いて鋳造すること)」であったとも言い伝わっています。日本武尊像の完成を深謝した鋳物職人たちは、翌年、同像の小型木造原型を日本武尊の分霊として高岡市横田町の有礒正八幡宮に祀りました。

明治時代の喜多万右衛門鋳物工場
背後に千保川の流れが見える

 この日本武尊像は最初金沢の鋳物師たちが請け負うことになっていたそうです。ところが、高岡鋳物師たちは、幕末の頃から蝦夷(えぞ・北海道)へのニシン釜の移出でますます勢いを得て販路を拡大し、全国屈指の総勢と圧倒的な技術力の高さを誇っていたので、われらが領分とばかりにこの日本武尊像の鋳造を後から名乗りを上げて請け負ったのです。高岡鋳物師たちは、互いに知恵を持ち寄り大変な苦心と研究とを重ねながら銅像の完成に至ったことは、先祖たちの武勇伝、後輩たちへの教訓譚として地元鋳物業界に今もなお語り継がれているところです。
 当時の鋳物産地といえば、鍋・釜・鋤などの日常的な生活道具づくりが主な生業でした。その中にあって高岡が、銅像産業の分野に新たな活路を開き、その生産を発展させたことは大きな特色です。日本武尊像は、その最も初歩的作品として歴史的画期性を持つものと言えます。
しかしながら、この日本武尊像、金沢では、「顔がでかすぎてバランスが悪い」「前田文化の象徴、兼六園に合っていない」「草薙の剣の形や日本武尊の装束が歴史考証に合わない」などと悪評を買いました。金沢鋳物師から横取りしたような形で、高岡鋳物師が鋳造を請け負ったのですから、金沢で悪く言われるのも仕方のないことかも知れません。一方、高岡近隣の村では兼六園の日本武尊像に倣ってミニチュア版も作られました。砺波市栴檀野(せんだんの)城址公園(現存)と福岡町赤丸(あかまる)浅井神社(供出)の日本武尊像がそれです。
 当時の銅器業界のめざましい進展について、郷土史家の飛見丈繁(ひみたけしげ)が次のように書き残しています。
「藩政時代、伝統を墨守し来った高岡鋳物界も明治維新に入りて泰西(ヨーロッパ)の文明に触れ庶政一新とともに一大変革と進歩とを見たのである。藩政時代を通し鋳物師たちは金屋町の一画にのみ居住せるものが維新後高岡市内各町に散在するに至った。明治27年富山県工芸学校、次いで富山県立工業試験場が高岡に創設され鋳物の指導改善が行われ、富山県当局を始め官民挙げて大いにこれを奨励した。かの金沢兼六公園に建立せられた日本武尊の銅像は明治13年喜多万右衛門工場に於いて鋳造されたのであるが、日清日露両役の後、銅碑銅像等の大作の依頼註文多く、これが鋳造にも新たに松木焼成法が応用されて著しき進歩をみた。」 
(『高岡鋳物史話』)
 なお、日本武尊像は昭和63年から改修のための調査が始まり、平成2年には111年ぶりに高岡に里帰りして着色などの補修が行われました。この時も腐食が激しいので撤去を望む意見が文化庁の側にはあったようですが、金沢の人々の日本武尊像への愛着は強く、市民をあげて保存が望まれたので撤去は回避されました。幾度も取り壊しの危機を乗り越え、現在も日本武尊像が兼六園に威風堂々とした姿で建っているのは金沢の方たちの御蔭です。これは、高岡が深く感謝しなければならないところです。


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