太陽の塔の思い出
 昭和45年(1750)、大阪万国博覧会が開催されたときのことです。三菱電機茨木工場が、カラーテレビ『高雄』の景品として、岡本太郎作「太陽の塔」のレプリカを高岡銅器であつらえました。『高雄』は、日本家屋にマッチするように木製家具調にデザインされていて、欧米のデザインをそのままコピーした従来の日本のテレビとは一線を画した和風スタイルが商品コンセプトでした。景品の「太陽の塔」はその上に飾る置物で高さ約30pの銅像だったのです。「景品商法」は、高度成長経済期には、販売促進の方法としてさかんに用いられた流行商法でした。洗濯機を買ったら、パールの指輪がもらえるというのもありましたね。
 私はそのころ小学4年生、当時の記憶を辿ってみることにします。まず、本物の「太陽の塔」を30cmほどに縮尺したものが1体、高岡に送られてきました。本物の太陽の塔と同様の彩色が施されていて最上部の顔の色は美しい金色でした。私は一目見るなりすっかり見惚れていました。そして、これと同じものを高岡で作るのかとワクワクしていたその数日後のこと、私はかなりがっかりすることになりました。  
大阪市万博公園 太陽の塔
カラーテレビの景品
 何人かの大人たちが頭を寄せ合って話し合いをしているその中心に、ブロンズ系・シルバー系・茶系に全身を着色され変わり果てた姿の「太陽の塔」を見たのです。高岡で仕上げられた商品サンプルでした。大人たちは、どの色が一番ふさわしいのかを話し合っていましたが、どのサンプルにも、「太陽の塔」が放っているあの神々しく華やかなオーラのかけらもないように思われました。
 なぜ本物と同じように彩色しないのか大人たちに尋ねたところ、
「本物と同じように彩色するのであれば、高岡に注文は来ない。お客さんは高岡銅器の色を望んでおられるのだ。和風家具調カラーテレビ『高雄』に合う色はこれだ」というようなことでした。
 結果、ブロンズ系に決まり、鉄で鋳込んで表面をブロンズ加工するという珍しい作りになりました。
ちょうど時代は70年安保の頃で学生紛争のために大学閉鎖となって行き場を失った学生たちが、何人も鋳物工場に入り職人さんたちの手伝いをして「太陽の塔」の銅像を作っていました。その傍らには、キューピーマヨネーズの「たらこ」のコマーシャルのような有様で、ブロンズ色の「太陽の塔」がずらりと並べられていたのです。
 「太陽の塔」の銅像の思い出は、大阪万博・岡本太郎・カラーテレビ・景品商法・大学紛争と一時代をみごとに反映していて今思えば貴重です。子どもの頃の私をがっかりさせたブロンズ色の太陽の塔ですが、改めて眺めてみるとどこかノスタルジックでなかなかいいではありませんか。あれから、35年以上が経ち『高雄』はみなお釈迦(しゃか)になっているかと思いますが、「太陽の塔」の銅像はまだどこかの家庭にあるかもしれません。耐久性に優れているのが銅像の身上とするところです。
 それから、昭和47年(1972)には、北海道札幌市真駒内競技場に設置されている札幌オリンピックの聖火台(柳宗利作)が高岡の業者で製作されました。「東京オリンピックの聖火台は川口で鋳造されたが、今度の札幌オリンピック聖火台は高岡だ」といって大人たちは奮起していました。この聖火台は左右非対称で鋳込むのが大変だったそうですが、出荷されるときには、高岡中の鋳物業者たちがたくさん式典に集まり、会場が割れんばかりの万歳三唱で聖火台を見送りました。当時、万歳三唱で見送ることが、大型銅像を出荷するときの高岡の慣わしでした。
札幌オリンピックの聖火台(「高岡銅器」より転写)

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