[.高岡大仏とその周辺

『鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立ちかな』与謝野晶子が鎌倉大仏のハンサムぶりを詠んだ有名な歌。昭和8年に高岡を訪れた晶子は高岡大仏を拝し、「鎌倉大仏より一段と美男子」だと言ったとか。でも、そんな話高岡の者さえあまり知らない。
 
高岡大仏は、鋳物の町高岡のシンボルだ。総高15.85m・座高7.43m・総重量65トン。日本三大仏に数えられる理由は、先ずこの大きさ。そしてルーツが今から780年前に作られた木造大仏にあるという伝統。鋳物の町高岡の威信をかけての技術の高さと芸術性の優位であるという。市民が寄せる愛着度の高さもぜひ理由のひとつに加えたい。
 
明治時代の大仏の尊顔が、現在の高岡大仏
下部の回廊中心部 に 安置されている。
 
灯篭や仁王様はもちろん銅器鋳造によるもの。この仁王に触ると筋肉質になれるという伝説がある
大仏は何度も火災にあい、そのたびに高岡町人たちの努力により作り直されてきた。明治33年の高岡大火で被災した後、明治41年(1908)に大仏再建の発願がされた。この時、郷土の彫刻作家の中野双山が27歳の若さで原型制作の依頼を受けている。「穏やかな表情の仏」を双山は作ろうと思った。資金調達が困難であった期間もあり完成に至ったのは昭和7年(1932)。発願から33年という長い年月を経て、開眼供養は昭和8年のことだった。
 
江戸時代の時計のない頃、高岡町民はこの鐘の音で時刻を知った。
高岡奉行の寺島蔵人が時鐘の鋳造を計画したところ、金屋町の鋳物職人たちが「前田利長公以来の手厚い保護に報いるため、私どもが時鐘をお作り致しましょう」と申しでた。こうして文化元年(1804)に時鐘は据え付けられた。ところが、間のなく、この鐘にひび割れが生じた。この不本意を悔しがった金屋町鋳物師の鍋屋仁左衛門は、「高岡鋳物師の名にかけて」と私財までも投じてみごとな時鐘を完成させたのだった。
この鐘には、そのようなエピソードがある。
この時代、高岡鋳物師集団は、全国一の総勢と圧倒的な技術力の高さを誇っていた。
・・はるかなる天竺より この北国の
片隅に来たり座せる 仏の像
座り飽きたるさまもなく 撫肩に 伏目にて
通る人をば 見て守る 
さるにても その日々の流れの長きかな
茫然たり一場の夢
われもまた見守られたるその一人

「高岡の大仏に寄す」 堀田 善衛

角久(かどきゅう)旅館
古くから北陸道沿いの商人宿として知られる、高岡大仏前の老舗旅館。明治元年の創業。土蔵や庵看板に明治の面影を留める。一階の食堂で大仏様を目の当たりにしながらの朝食はおいしいと宿泊客に評判。女将さん手作りの和の小物に心和む。
 
木田芳香園(きだほうこうえん)
抹茶アイスのおいしいお店。
喫茶店ではないが、店内には一休みできるスペースあり。1個250円
 
塩屋昆布店
富山の昆布食文化を支える昆布専門店。品揃えはさすがに豊富。店内は昆布のよい香りに包まれていた。この日もご主人の昆布削りの技がさえる。羅紗の布地のように薄いおぼろ昆布が宙を舞って削りだされていた。
お土産にどうぞ。

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