瑞龍寺の唐仏と黄檗

食の神様、韋駄天
瑞龍寺韋駄天像 高さ88㎝ 撮影高岡市

 細微な装飾の甲冑と、風に揺らぐ軽やかな衣に身を包んだ若き武人の像。その瞳はどこか憂いを帯びていて、思わず引き込まれてしまいます。
 これは、瑞龍寺の大庫裏にお祀りされている韋駄天(いだてん)像です。 韋駄天とは、お釈迦様のために方々を駆け巡り、食べ物を集め運んだという食の神様。禅宗寺院では食事も修行のひとつ、食堂は神聖な修行道場です。それで瑞龍寺では韋駄天を庫裏(台所)にお祀りしています。また韋駄天は幼児に取りつく病魔を防ぐ神様と信仰を集め、さらには伽藍を守る本尊ともされています。近世寺院の中では他に類を見ない大伽藍を誇る瑞龍寺にあって、韋駄天は欠くことのできない存在といえそうです。
 この像は、17世紀半ばの瑞龍寺創建の時代に加賀前田家が寄進したもの。「華工」つまり中国人仏師が、中国で或いは日本国内で制作した「唐仏(からぶつ)」といわれています。
 承応3年(1651)、中国からひとりの禅僧が長崎に渡来しました。名は隠元隆琦 (いんげんりゅうき 1591-1673) 。隠元は明暦元年(1655)に、長崎から摂津(今の大阪府高槻市)の普門寺に移り、万治3年(1660)に四代将軍徳川家綱から京都宇治に寺地を賜わると、そこを永住の地と決め、黄檗山万福寺を開きました。このとき、隠元の招請を受け万福寺に上ったのが、長崎に滞在中であった中国人仏師の范道生(はんどうせい1635-1670)です。彼は万福寺を拠点に、有名な十八羅漢像など多くの中国様式の仏像を制作し、当時の日本の仏像彫刻に少なからず影響を及ぼしました。范道生の手に成る万福寺の韋駄天像と、瑞龍寺の韋駄天像はとてもよく似ています。

唐仏
瑞龍寺の本尊 仏殿の釈迦三尊像 撮影高岡市
 瑞龍寺仏殿に祀られている本尊釈迦三尊像。その背景となっている壁面は、西方浄土の空に横雲がたなびく有様を、木目で再現しているといわれています。色彩装飾の一切を排し、天から与えられた「木」という素材だけで抽象的に表現された西方浄土の様相は、精神性を尊ぶ禅宗寺院ならではの美意識です。
 韋駄天像と同じく本尊釈迦三尊像もまた「唐仏」です。これもまた、瑞龍寺創建時に加賀前田家によって奉納されました。
 釈迦如来像は、寛文2年(1662)に范道生が作った宇治万福寺の白衣観音坐像(びゃくえかんのんざぞう)と大きさこそ違いますが、ふっくらと垂れ下がった耳たぶ、両足のふくらはぎで複数の楕円形が重なる左右対称の衣文、腹部からのぞく内衣を紐でゆったりと結んだ意匠等には似た趣があります。また、脇侍の普賢・文殊菩薩は、大乗仏教の象徴である白像と獅子の乗り物に乗り、身体の軸を少し斜めに崩して片足を下げて、くつろいだ姿勢をとっていて、これは日本の仏像彫刻には見られない、中国の仏像彫刻の特徴のひとつです。





  仏殿本尊脇侍の普賢菩薩 仏殿本尊脇侍の文殊菩薩
普賢菩薩坐像 高75㎝ 釈迦如来坐像 高72.5㎝ 文殊菩薩坐像 高75㎝
瑞龍寺宝物館蔵 弥勒菩薩像 撮影高岡市
 日本で弥勒菩薩といえば、京都太秦の広隆寺や、奈良の中宮寺に安置されている、ほっそりとした半跏思惟像を思い起こしますが、中国で弥勒菩薩といえば布袋様。どっぷりと膨れ上がった太鼓腹と、満月のようなお顔に二重あごをしたあの布袋様です。日中の文化の違いを知る思いがします。
 京都の宇治万福寺の天王殿にとても大きな布袋像(弥勒菩薩)が安置されていて、この像は中国人仏師・范道生の作と伝えられています。瑞龍寺には、小さくてかわいい布袋さん安置されています。この像も瑞龍寺創建の頃から伝わるものですが、それが誰の作なのかは不明です。
 そのほか、瑞龍寺仏殿には、青い眼をしてマントを肩からかけた異邦人的な趣の碧瞳達磨(羅漢)、中国の寺院では海上交易の神、媽祖(まそ)の守護神とされている大権現修理菩薩(千里眼) 、水とゆかりが深い跋陀婆羅尊者(浴室の守り本尊)のなど、珍しい仏像が安置されています。これら瑞龍寺の仏像は、おおむね一木造りに漆箔・彩色といった独特の技法がとられており、作風は細部に緻密でリアリティに富み、明・清時代の中国式仏像彫刻の特徴をよく留めています。
 瑞龍寺の創建時、山門の上階に納められていた羅漢像もまた、唐仏であったといわれています。この唐仏さまには面白い逸話が伝わっています。羅漢像は、いずれも中国人仏師の手で作られ、ワラで大切に梱包されて瑞龍寺に搬入されました。ワラの一本にモミがついていたので、あるものが面白半分を植えてみたところ、なんととても美味しいお米が稔ったというというのです。この渡来米は「唐法師(からぼし)」と呼ばれ、高岡の近隣でさかんに栽培されました。糯米の一種であったといわれ、その栽培は新田の土地改良にも役立ちました。山門は、延享3年(1746)に浴室からの出火に類焼し、羅漢像は焼失しました。現在、山門に納められている羅漢像は、山門が文政元年(1818)に再建されたとき、地元の仏師たちの手によって作り直されたものです。
碧瞳達磨坐像 撮影高岡市 大権現修理菩薩坐像 跋陀婆羅尊者立像

墨跡
 隠元の禅は、臨済正宗黄檗派(後に黄檗宗)と呼ばれ、その影響を受けて、日本の宗教界全体が大きく改革されることとなりました。彼によってもたらされた中国文化は、一世を風靡。隠元は、実に多くの文化人と交流を結びました。元禄文化の醸成に、隠元が与えた影響も少なくはありません。
 瑞龍寺の山門の「高岡山」、仏殿の「大雄殿」、法堂の「瑞龍寺」の扁額の文字は、みな隠元の書です。寺の表札ともいえる扁額に隠元の堂々たる墨跡があること、それが瑞龍寺を「隠元寺」と呼ぶ由縁です。隠元は能筆家として広く知られ、その作風は「穏健高尚」と評されました。
山門に架かる「高岡山」扁額の原本(瑞龍寺宝物館蔵)
前田利長が開いた城下町高岡の名に由来する山号。
右は瑞龍寺山門外観

仏殿に架かる「大雄殿」扁額の
原本。(瑞龍寺宝物館蔵)
大雄とは釈迦の意。
左は仏殿外観

法堂内に架かる「瑞龍寺」扁額の原本(瑞龍寺宝物館蔵)
瑞龍寺の名は、この寺に祀られている高岡の開祖前田利長の
院号「瑞龍院」に由来する 。左は法堂の外観

瑞龍寺の浴室の扁額は、中国出身の黄檗僧悦山
(1629-1709)の筆。悦山は万福寺の七代目住持
となった人物で、能筆家としても知られ「書の悦
山」と称された。(瑞龍寺宝物館蔵)

梵鐘
 2009年の新年番組 NHK「行く年来る年」は、高岡山瑞龍寺の梵鐘の音で始まりました。このことは高岡に住む私たちにとって、喜ばしい思い出となりました。
瑞龍寺の黄檗風梵鐘 撮影高岡市
総丈148㎝ 口径87㎝
梵鐘の刻まれている銘文は隠元が高槻の普門寺で編んだもの。隠元直筆の原本は今も瑞龍寺に保管されている。
高岡開町400年の到来を告げてくれた瑞龍寺の梵鐘は、一風違った形をしています。この梵鐘のルーツは、隠元が長崎の鋳物師津村道助に作らせた黄檗風梵鐘にあると伝えられています。道介が万治2年(1659)に作った梵鐘は延享3年(1746)の火災で焼け落ちましたが、現今の梵鐘が明和5年(1768)に高岡鋳物師たちの手により前作に倣い改鋳されたことが、梵鐘の刻字より知ることができます。
回廊と鐘楼の外観
 話は飛びますが、京都上高野にある天台宗寺院蓮華寺にも黄檗風梵鐘があります。回遊式庭園と紅葉の美しさで知られるこの寺は、加賀藩の家老であった今枝近義が、祖父今枝重信の菩提を弔うために建てた寺です。梵鐘には黄檗僧木庵(1611-1684)の銘が刻まれています。木庵は、明暦元年(1655)に渡来した中国僧で、隠元を継いで二代目の万福寺住持となった人物です。蓮華寺の黄檗式梵鐘は、加賀藩士と黄檗宗とのつながりを伝える貴重な遺産です。今枝近義は、狩野探幽、石川丈山、小堀遠州や、黄檗僧の隠元、木庵らとも親交を持つ文化人でした。
左は、京都市上高野蓮華寺の黄檗式梵鐘と鐘楼。梵鐘は宇治万福寺鐘楼の梵鐘と同形といわれる。今枝重信は通称「民部」といい高岡城三の丸に邸宅を持っていた人物。蓮華寺の一角には今も「高岡稲荷」が祀られており、高岡とのゆかりを感じさせる。

法具
法堂の木魚 二頭の竜が珠をくわえる意匠
大庫裏に架かる雲版
左右の円は日月を表し、その下に雲の紋様を描く。
雲は雨を降らせるので鎮火の意味があるという。
 禅寺の門前で必ず眼にする「不許葷酒入山門」の石碑。「ニラ、ニンニクや酒のニオイを放つ者は、門より中に入ってはいけません」の意です。これを日本に伝えたのも、黄檗宗といわれています。
 また、読経のときに打つ円い木魚もしかり。木魚は、鎌倉時代に臨済宗・曹洞宗が伝わると同時に日本にもたらされたと考えられますが、この時代の木魚は長方形をしていたそうです。二頭一身の竜の頭が相接してふたつ口でひとつの珠をくわえ合っている円い形の木魚は明・清の時代に誕生し、隠元の黄檗禅とともに日本にもたらされたとの説が有力です。瑞龍寺法堂の木魚は、とても大きくて立派なもの、二頭一身の竜が珠をくわえている様が見事に彫刻されています。
 それから、禅堂前に吊るされ時刻を知らせる魚梆(ぎょほう)、庫裏前に吊るされ食事の開始を知らせる雲版(うんぱん)なども黄檗禅にはじまり、日本の禅宗寺院に広く取り入れられました。瑞龍寺には、加賀百万石の威勢を感じさせるような、それは立派な木魚、魚梆、雲版・銅磬(どうけい)などの法具が備えられています。これらも見所のひとつです。


禅堂に掛かる魚梆(ぎょほう・かいぱん)











『黄檗清規』より
銅磬の手本

『黄檗清規』より 魚梆の手本

『黄檗清規』より 木魚の手本

『黄檗清規』より 雲版の手本

伽藍配置
瑞龍寺の伽藍配置 撮影高岡市
 「伽藍瑞龍(がらんずいりゅう)」と世に謳われ、壮大を誇る瑞龍寺。それは、味噌醤油の発祥地とも伝えられる中国の徑山万寿寺(きんざんまんじゅじ)を手本に、加賀藩の大棟梁山上善右衛門(やまがみぜんうえもん)が設計したと伝えられています。
 しかし、かつての徑山万寿寺の伽藍配置の全貌が今に伝わっておらず、残念ながら現代の私たちが両寺の伽藍配置を比較することができません。
 瑞龍寺の伽藍は総門・山門・仏殿・法堂が東西中心軸に一直線に並び、禅堂と庫裏が南北に左右対称に配置され、山門・禅堂・法堂・庫裏・山門を回廊が一巡して口字型に囲っているのが特徴です。かつては、山門の外側に浴室と七軒浄頭(トイレ)が左右対称に配置され、古規をまっとうした七堂伽藍でした。上空からは境内の建物が美しく整った左右対称形に並ぶ様が見て取れます。
 隠元が開いた黄檗宗寺院 宇治万福寺は、三門・天王殿・大雄宝殿・法堂が一直線に並び、その他の堂宇が左右対称の整然と並ぶ伽藍配置です。瑞龍寺の伽藍配置は、その影響を受けているという見方もありますが、研究者の中でも意見が分かれるようです。
 17世紀半ば、長崎に渡来した隠元。長崎では今も隠元ゆかりの寺院、崇福寺、興福寺・聖福寺などが独特の異国情緒を伝えています。 隠元が伝えた黄檗文化は、一時代、全国的広まりを見せました。ここで見てきたように、わが高岡市の国宝瑞龍寺にもその影響は及んでいました。瑞龍寺には、黄檗文化が日本に溶け込んだ姿があります。長崎が黄檗文化の起点とするならば、瑞龍寺はその終着点といえるのかも知れません。
瑞龍寺山門の石敷
協力 高岡市教育委員会文化財課
参考図書 『みんなの瑞龍寺ワールド』四津谷道昭 北日本新聞社 /『黄檗宗の歴史・人物・文化』 木村得玄 春秋社 /「黄檗様彫刻前史―17世紀長崎の造像界と范道生」『日本の美術』第507号2008年楠井隆志 /「長崎の鋳物師津村道助製作の梵鐘について」『長崎の空』長崎史談会 松沢七蔵 /『瑞龍閣記』寛政11年 富田景周

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