・富山の地酒
 長く雪深い冬も終わり、北国にも春が訪れます。田植えを待つ砺波平野南部の散居村。どの田にも水が引かれ、空を写して鏡のように輝いています。医王の峰々を背景に、空に浮かぶ雲と水田に写された雲とが同時に動いて行く雄大な風景。水と米の王国、富山ならでは大パノラマです。   
 散居村の水田では米食用の「コシヒカリ」とともに「五百万石」とよばれるお酒用のお米・酒米が作付けされていて、秋には黄金色の穂を実らせます。
 ところで、富山の地酒の特色って何でしょう。いつも「やっぱ、酒は地酒やちゃ。」と調子よくやっているわりには、「ウン?」と答えにつまってしまう自分があります。
 味は通好みのすっきりさわやかな淡麗辛口。北アルプスの雪解け水が源、ミネラル分たっぶりの名水仕込み。富山の良質なお米で仕込んだ酒。云々。認識不足ですので少し調べてみました。

富山の地酒の特色
特色
精米歩合が低い  全国一位
美味い酒を作るには、米の外側を磨き惜しみなく削り落とすことが必要。米を磨けば磨くほど酒は美味しくなります。精米歩合が低いほうが贅沢で高級な酒ということ。
酒造好適米使用率が高い  全国一位
五百万石や山田錦など「酒造好適米」、通称「酒米」の利用率が日本一高い。ちなみに散居村で知られる砺波平野の南部は全国でも屈指の五百万石の名産地。山沿いで寒暖差の激しい気候が酒米の作付けに向いる。
特定名称酒割合が高い  全国五位
米や酵母や手法にこだわった吟醸酒・純米酒などの高級酒を造っている割合が高い。
 富山の酒は質のよい原料を使用し、手法にもこだわった贅沢な高級酒。富山湾の海の幸も贅沢な食通向けなら、富山の地酒もまたしかりいうところでしょうか。
 富山の酒造業界で今とても注目されているのが、「雄山錦」という酒米です。雄山錦は富山県農業技術センター農業試験場で開発された新品種です。まさに富山で産声をあげ、富山の大地で育った生粋の越中男児。幼名を「富山酒45号」といっていましたが、このほど郷土が誇る立山連峰の主峰「雄山」の名を取り「雄山錦」という栄えある名が付けられました。酒米の王者「山田錦」に追いつけ追い越せとの期待をかけられています。「雄山錦」は吸水がはやく、こうじ菌の繁殖力が強いことに加え、精米度を高めても砕けることが少ないという酒造好適米としての優秀な資質を備えているとのこと。どんなお酒ができるのでしょう。
 砺波平野南部の町、福光で酒造をしておられる成政酒造株式会社では、県下でもいち早く「雄山錦」の試験醸造に着手。初の富山県産酒造好適米「雄山錦」の誕生に、醸造元として多大の協力をしてこられました。平成13年5月より「雄山錦」を全量使用した「純米吟醸酒成政」(精米歩合55パーセント)と「大吟醸医王山」(精米歩合50パーセント)の販売を開始しておられます。「雄山錦は大粒ででんぷん質が多く、上品な香りのよい酒に仕上がる。味は辛口でやや濃醇。また、夏の暑い盛りを過ぎて秋を迎えるころに味がのってくる(秋あがり)の酒として好評を得ている」と伺いました。
 成政酒造株式会社では明治27年創業以来、「蔵が立地する土地の高品位な米でその酒造りを行う」という地酒の大道を貫いてこられました。砺波に地に初めて五百万石を持ち込んだのも現蔵元の父君山田外三郎さんでした。その後も美山錦・山田錦・玉栄・一本〆の品種の地元導入に関与。農家との契約栽培を推進してこられました。そして今回の新品種「雄山錦」。3代にわたって地元産「酒米」に対する一途なこだわりは、半端じぁありません。
成政酒造株式会社
939−1676富山県西砺波郡福光町舘418
電話0763-52-0204
ファックス0763-52-6485
http://www1.tst.ne.jp/narimasa/

・高峰譲吉博士「元麹改良法」
 高峰譲吉博士はアドレナリンの結晶化や消化酵素タカヂアスターゼの精製で、世界的に有名な化学者です。譲吉は今から150年ほど前の嘉永7年(1854年)9月13日に高岡で生まれました。父は医師、母は横田町の酒造屋「鶴来屋」の娘でした。「鶴来屋」は今はもうなく、その醸造施設は荒野日本晴酒造さんが引き継いでおられます。(ちなみに弊社から20メートルほど離れたところです。)しかし、「鶴来屋」の名は現在もなお横田町の荒野家前の道「鶴来屋小路(ツルガイショウジ)」に残っていますし、博士が晩年アメリカにあってしきりに懐がっていたという思い出のエンジュの木も荒野家の庭に残っています。

 譲吉の母の実家がある横田町は、古くから豊富で質のよい地下水を活かし染色業や醸造業を営むものが多く居住した職人町です。江戸時代初頭、すでに酒造・藍染などの業者が横田にいたことが「横田・村御印」の「小物成」に「紺屋役・酒屋役・室屋役・油屋役」とあることから分かります。
 青年譲吉の研究は、日本酒の醸造、天然染料である藍の製造などの日本の固有産業に、最新の酵素化学の知識を応用しようとする試みから始まりました。幼少の日の譲吉は、横田町の職人たちの日々の生業を好奇心に満ちた純粋な眼で観察していたのでしょう。酒造蔵で酵母がふつふつと音をたて生成する様、染物屋で藍染の茶色の布から還元作用によって鮮やかな藍色が現れる様などは「不思議」という言葉のとおりです。
 こうした幼年期の「不思議」体験が、後に譲吉を酵素化学の研究へと導きました。譲吉が医師を父にもったことも彼の人生に多大の影響を与えているのでしょうが、母の実家が職人町横田の酒造屋であったこともまた、化学者としての彼の運命を決定づけているのです。
 1890年、35歳の高峰譲吉は「元麹改良法」で特許を取得しました。元麹改良法は、「種麹」をさらに改良しアメリカまでの輸出を可能にしようとしたものです。麹菌を輸出することで、アメリカでのウイスキー醸造に日本の麹菌を応用することが目的でした。このアメリカでの最初の研究が、後のアドレナリン・タカヂヤスターゼの研究への出発点となったのです。

・高岡染色
 かつて高岡は綿産業の町でした。加賀藩により加賀・能登・越中における綿の専売権を特別に許可されていた高岡では、綿取引所が開設され、北陸随一の綿の集散地としての地位を確立していたのです。高岡の綿商人の中には 北前船を所有し海洋交易を舞台に大活躍し、総合商社ともいうべき商いをする有力商人もいました。現在、高岡には立派な土蔵づくりの町並みが残っていますが、この土蔵づくりの家の多くは綿商人たちによって建てられたものです。
 少し話しはそれますが、大阪の住吉大社に行かれたことはありますか。大阪住吉大社は航海安全の神様として近世の廻船商人たちの篤い信仰を集めていました。また、このお社には膨大な数の石灯籠が立ち並んでいますが、それは全国の廻船商人たちによって奉納されたものです。その石灯篭の数は620基にも及ぶということです。石灯篭奉納は商人たちの信仰心の表れであるとともに、商人としての力量を誇示するステイタス・シンボルでした。この石灯籠群の中にある、圧巻高さ5メートル以上の2基の大型灯篭。横田町の大商人福岡屋清右衛門をはじめとする高岡の綿商人たちが奉納したものです。往時の大阪綿市場における高岡商人の勢力を今に伝えるモニュメントといえるでしょう。大阪在住の富山県人の方、ぜひ一度尋ねてみてください。礎石に大きく「越中」「締綿荷主廻船」と書かれています。(字は右から左に読んでくださいね。神社にむかって左端に建っています。)
 さて、高岡の綿商いとともにさかんであったのが「高岡染」の名で知られた染色業です。安政6年に高岡で書かれた「高府安政録」によれば「紺屋49軒・茜染屋18軒・紅染屋15軒」合計82軒の染物業者が幕末期の高岡で営業していたといいます。彼らは高岡に集められた綿布・綿糸あるいは麻布・麻糸に染色を施し「高岡染」のブランドで各地に移出していました。
高岡の古文書類に残る屋号には、染物に関るものが多く見られます。紺屋・梅染屋・赤刷屋・茜屋・藍染屋・染屋・紅屋・晒屋・渋屋などです。染色の工程が色別に細かく分業され、染色が盛んに行われていたことを今に伝えるものとしてと興味を覚えます。
御車山の引き手が着用する染半纏。凝った図柄が見るものの目を楽しませます。美しい染半纏で男前も上がるというもの。
 紺屋・藍染屋は蓼藍による青や紺色、渋屋は渋柿からとった柿渋色、紅屋は紅花からとった紅色の染色を担っていました。藍・柿渋・紅は、どれも「発酵」という過程を経て得られる染料です。染色と「発酵」とのつながりは興味深いところです。
 高岡の老舗染物問屋の御当主にお伺いしたところ、梅染めの染料は梅の樹皮の煎汁、茜染めは茜草の根っこを染料していたと教えて下さいました。また、ひとくちに藍染といっても「新橋」と呼ばれる濃いスカイブルーや「納戸」と呼ばれる玄関幕用の紺色などその色具合は多様であったそうです。高岡に残る染色にかかわる屋号を見ていると、川面に晒される色とりどりの美しい布の姿が彷彿として浮かび上がってくるようですね。
川で布を晒す風景
 加賀は友禅染の着物で有名ですが、宮崎友禅斉が模様染の手法を確立する以前から、加賀藩では染物はさかんに行われていたといいます。それは、「お国染」の名で広く親しまれていました。加賀友禅のルーツともいうべき「お国染」は梅染・黒梅染・藍染・茜染・柿渋染などの草木を染料とした無地染めであったとか。高岡の屋号がいつごろできたのかは分りませんが、染色業者の屋号は起源の古い「お国染」に由来するものではないかとひとり想像しています。

  室屋長兵衛が居住した横田町でも、醸造業ともに綿や麻の染色業が盛んでした。前項でも述べましたが江戸時代初頭、「横田村村御印」の「小物成」として「紺屋役・酒屋役・室屋役・油屋役」とあり染色業・醸造業の起源の古いことがわかります。
 染色業も醸造業も水に支えられた産業です。とくに染色業は染めの後処理の「さらし」に大量の水を使用します。さらせばさらすほどによい色がでるというのですから水は大切です。横田町が豊富な地下水に恵まれていることはすでにお話しましたが、染色業の立地条件として「川」という要素もはずせません。かつて千保川は現在の庄川の本流であり、大きな河川でした。横田町近辺でもっとも川幅が広く、その川幅は300メートル以上あったのだそうです。川の中央には中州があり、また立って歩けるほどの広い浅瀬もありました。横田町は「さらし」に適した地形だったのです。
藩政時代、瑞龍寺を水害から守るために大掛かりな治水工事が行われ川の本流は現在の庄川へ移行した。高岡を流れる千保川はかつて度々の水害をもたらし町人たちを脅かす大河川だったが、人々の生活を支える川でもあった。現在の千保川は川幅30メートルほどの河川となっている。中州も今はもうない。

弘化3年(1846年)奉納の有磯神社石灯篭
上左「廻船主布屋市郎兵衛」上右「廻船城安丸茂吉」下「江州中郡 渇ョ仲間 世話人高辻屋與左衛門」と彫られている。高辻屋與左衛門は高岡の綿商人。江州中郡は現在の滋賀県東部、蒲生郡・神崎郡・愛知郡。この地方は蚊帳の名産地であり、蚊帳は近江商人の下り物の主力産品だった。渇ョは「かせや」と読み、麻糸・綿糸を一定の長さに束ねたもの(=かせ)を農家から買取り、布屋に売渡す仕事をしていた。横田町で染められた麻糸・綿糸が近江商人の「かせ屋」「布屋」によって近江地方に廻送され、そこで蚊帳に仕上げられ、さらに関東への下り物として売りさばかれていたのだろうか。近世の糸流通の一場面を垣間見る思いだ。「かせや」は越中・能登では「渇ョ」と書き、近江では「綛屋」と書いた。

 高岡染の中心は紺屋の染める藍染です。藍は江戸時代の庶民の衣類の色として最もポピュラな色でした。藍で染めた布には防虫効果があるうえ、強度・耐久度が増すので労働着として適していました。また、藍の落ち着きある色合いは堅実を尊ぶ商人の好みと合致し、店の顔である「のれん」や「印ばんてん」にも藍染がさかんに使用されました。
 この藍染業、実は酒・味噌・醤油といった醸造業と同様、「発酵」や、そして「米・小麦・大豆」と、とてもかかわりの深い産業なのです。
藍甕
天然のいけすといわれる富山湾。
深い水域のことを漁師たちは「アイガメ」とよぶそうです。深い藍色をみていてふとそのことを思い出しました。

藍染の店暖簾と印半纏。紺色に白く染め抜いた印が潔いです。高岡土蔵造りフェスタにて
 藍の製造過程に「すくもづくり」と「藍建て」があります。
 「すくもづくり」とは葉藍を一旦乾燥させた後、堆積して水をうちながらむしろで覆い発酵腐熟させることです。高い熱を発しますので何度も切り返して発酵熱を管理します。この発酵が落ち着くには80日ほどかかり、出来たものが「すくも」です。そして「すくも」を臼でペタンペタンと搗いて練り固めたものが「藍玉」です。日本酒を入れて搗くとよい色がでるといい酒を混ぜながら搗いたともいいます。
 次に「藍玉」を藍甕にいれ灰汁を注ぎます。これに石灰・日本酒を加えます。日本酒は甕100リットルに一升ほども入れるそうです。瓶ごとどぶどぶと注ぐ様子は藍にお神酒を与えているようです。さらに、ふすま(小麦の外皮を粉にしたもの)を灰汁で煮たものを加えます。一旦落ち着いた藍玉菌の発酵を再び呼び覚ますのが日本酒です。藍玉菌はふすまや酒を栄養にして増殖します。藍甕の攪拌は毎日行い新しい空気を入れてやります。そして藍が酸性にならないように色やにおいや「藍の花」と呼ばれる泡を観察します。藍の色が緑色がかっていたり、甘いにおいがしたり、泡の量がへったりしていると藍が酸性になっているサインです。その場合石灰を混入し中和をします。石灰で中和する知恵は昔から酒や醤油づくりにもあることです。また、藍は温度管理をして15から16度に保ってやらねばなりません。寒い季節には炭をたいて暖をとります。こうして、繊細な気配りをしながら発酵を見守ります。この藍甕で藍を発酵させる過程が「藍建て」です。以上が藍と発酵との関わりです。
 さて、小麦とのかかわりは、先にあげた「ふすま」です。小麦は麩や麺そして醤油の主原料でもあります。小麦の外皮を粉にしたものがふすまです。ふすまはいわば産業廃棄物。産業廃棄物を藍の栄養として利用しているのです。
 次に大豆とのかかわりですが、反物の染色に先立ってまず、「呉汁(ごじる)」を綿布に塗る作業を行います。呉汁とは生の大豆を水に浸漬してよく吸水させ、少々水を加えてすりつぶし絞って得た汁です。呉汁を布に塗ることで反物に藍が均等に染まり、色の定着にも役立ちます。大豆が味噌醤油の主原料であることは言うに及びませんね。
 そして、染色に使用する防染糊。防染糊を塗ったところには色が染まりませんので模様の染め抜きなどには不可欠です。今でも高岡に糊の業社があるのはかつて染色用防染糊を多量に必要としたからです。この糊の原料は米。ただし、うるち米が使用されているとのことです。
 横田町の染職人と醸造職人は、豊富で良質な水を利用し、また小麦・大豆・米・木灰や石灰など共通の原料や資材を使用し、発酵にかかわる技術や知恵を共有しながら仕事をしていたのです。職人町横田の兄弟産業とでも言うところですね。

 味噌醤油屋が染物について語るのもおかしな話かと思いましたが、醸造業と染色業は決して無縁ではなく、同じく発酵に関る産業なので今回取り上げてみました。また、ひとりの高岡市民として「高岡染」を見直してみたいとも思ったのです。よい作品が高岡には残っていますのでいくつかを紹介したいと思います。
高岡の藍染 高岡市立博物館所蔵品より
  鯛の絵柄の婚礼用風呂敷
宝尽くし絵柄ののれん
菊松孔雀羽絵柄ののれん
鶴亀ののれん

木綿
木綿
木綿

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