・殿様正月料理と海の幸
 殿様の正月料理は、魚・鳥の肉がふんだんに取り入れられた豪華絢爛たる料理です。アワビ・カツオ・鱈・数の子・フナ・鮭・鯛・さんま・鮎・鰤・くらげ・サザエ・鯛・鱒・鯉・・・。そして、うずら、白鳥、鶏。
 お料理をズームアップで見てみましょう。
器に敷かれている折り紙は、亀足(きそく)という。御飯は、高く盛り付ける。神へ供える柱との説も。御飯の高盛りは富山の報恩講や能登輪島のもっそう祭りにも見られる習俗。中央はさんまのなれずし
・・・・・・御本膳
中央はアワビの貝殻を器として盛り付けした料理。右上は、鮎のなれずし。左上は、酒浸(さけびて)と言われる料理で、塩を加えた酒に魚や鳥の肉や野菜を浸したもの。また、目出度い時の汁物は、白鳥や鶴で出汁をとったという。鰤の照り焼きがおいしそう。
・・・・・二の膳
サザエは「とちめ前」という盛り付け。下に二個、上に一個を重ね吉事が重なることを祈念する。羽盛は、鳥の肉と鳥の生きた姿を盛り合わせ、生命力を存分に演出。舟盛も、海老を一匹そのまま茹でたもの。ともに、野趣溢れる料理だ。さすが、殿様。
・・・・・・三の膳
ますの塩焼き。鯉の刺身。鯉の刺身は、酒とみりん・出し汁を煮詰めた「いり酒」で食べる。当時、醤油の使用はまれであった。御汁は鯛。
・・・・・・四の膳・五の膳
 このような料理を見目麗しい女官たちが、しずしずとお殿様の前に、運んだのでしょうねぇ。いゃー、いいなぁ。「世は、満足じゃ」というしかない!
 さて、お料理の食材を見ると圧倒的に多いのはやはり、魚でしょう。
雨晴海岸から立山を見る
 能登半島を含めた富山湾沿岸は、古来より豊富な漁場として知られています。富山湾は大変に個性に富んだ地形をしておりまして、まず、背後に3000m級の険しい立山連峰とそれに連なる山並みを抱えています。この山並みからの雪解け水や雨水は、森林を通って7つの大河川に集まり、富山湾へと流れ込みます。この河川水は、森林からの有機質をたくさん蓄えており、海ではプランクトンを培養しそれが富山湾に生息する魚のえさとなりますので、富山湾は絶好の漁場環境となるわけです。
 富山湾の海底は深いところでは1000メートル以上もあるそうです。3000メートル級の山地から、冷たい雪解け水が一気にこの海底まで流れ落ちるのですからダイナミックな話です。これも大きな特徴のひとつ。この独特の地形のため、他の湾には見られない、例えば「蜃気楼」のような不思議な現象を生み出すのです。また、富山湾の海底は、山あり谷ありの起伏の富んだ複雑な地形をしており、沿岸部から湾底まで落ち込む急斜面を「ふけ」と呼んでいます。魚たちはこの「ふけ」に沿って大陸棚に向かって移動する習性がありますので「ふけ」に沿った「ふけぎわ」は格好の漁場となるわけです。
 富山湾の伝統漁法である「定置網漁」はこの「ふけぎわ」に発展した漁法です。網を一定の「ふけぎわ」に常設しておき、魚の回遊を待って捕らえる漁法で、現在でも、富山湾の総漁獲量の7割以上がこの漁法によるものだそうです。
 そして、日本海側最大の半島である能登半島の外側を北上する対馬暖流と、北方からの寒流とが富山湾内で交差するために多種の豊かな漁獲が富山湾にもたらされるわけで、富山湾が「天然のいけす」といわれる由縁はここにあります。
富山県氷見市の定置網
 富山湾で定置網が始まったのは、天正年間(1573〜1592)とされています。その頃は、「わら縄」でつくられた簡単な構造の網で、「台網」と呼ばれていました。その後改良が重ねられ、今日の「越中式定置網」へと発展していきました。
 富山湾が恵まれた漁場であったこと、そして漁師さんたちが大変早い時代から独自の工夫を重ねて効率性の高い漁法を開発したことが大きな要因となって富山の水産業は発展しました。
 殿様の正月料理に登場する豊かな海の幸の全てが、富山湾の産出ではないでしょうが、富山湾産のウエートはかなり高かったと私は予想します。
 金沢に魚を取り扱う問屋が出来たのは、天正11年(1583)のことだそうです。6人の魚問屋を置き、加賀藩領内の魚介類を金沢に集めさせました。この問屋が現在の近江町市場の基礎となりました。江戸における魚市場の誕生は、天正十八年(一五九〇)森九右衛門というものが日本橋に魚市場が開設したときだそうですから、加賀藩では江戸よりもさらに7年も早く魚市場を設置したというわけです。
 前田の殿様のもとへは、商人たちによって領内から最上の魚介が届けられました。氷見でとれたぶりなどは、氷見・守山・佐賀野・立野・今石動・埴生・倶利伽羅の宿駅を馬でリレー式に輸送され峠を越えて金沢へと運ばれるか、さらに急ぐ時には氷見から一気に早馬で金沢に運んでいたそうです。
 明暦3年(1657)には、高岡に塩問屋と並んで魚問屋が創設され、越中の魚は一旦、高岡の魚問屋に集散した後に、金沢へと搬送されるようになりました。高岡の商人たちは、越中の魚を独占的に扱う利権を得たのです。
 高岡魚市場の設置は、富山湾や越中を流れる河川が供給する水産資源が加賀藩領の中でも特に重要視されていたことによります。高岡の川原町に設置された魚問屋には、金沢の魚問屋より一名が派遣され、商いのノウハウを伝授したそうです。この時、「上のクラスの魚は、殿様と武士が居住する金沢へと回送し、並以下の魚は地元越中でさばきなさい」という厳しいお達しがありました。高岡などでは、イワシ・さんま・さば・いか・にしんなど庶民的な魚食文化が、内容豊かに育っているのもこのような経緯によります。高岡のおばあさんの中には今でも近世の呪縛から抜けられず、「高級魚を食べれば、口が曲がる」と自らに言い聞かせて安い魚ばかりを食べている人もいるのです。(そのひとりは、私の母です。)
 さらに寛文2(1662)年には、高岡に次いで七尾・小松・宮越に国別魚問屋が置かれました。また氷見・放生津・魚津の漁師町には末問屋が置かれ、富山湾でとれた魚は末問屋が集めて高岡や金沢へと移送したのです。ここに、加賀藩の魚流通のネットワークはより一層、拡充されました。このように、加賀藩では藩政時代の初期に早くも、藩内の豊かな漁獲が殿様のお膝元へと流れる見事な流通システムを築き上げていたのです。しかし、漁民の側からすると、藩による厳しい搾取が始まったということになりますね。
 ちなみに、生地などの新川地方でとれた魚は、輸送に時間がかかり魚がなれてしまうということで金沢へは搬送されず富山を経由して高山・飛騨地方へと流通していたそうです。
氷見漁港に水揚げされた鰤。きときとです。
 殿様の正月料理に並ぶ豊かで良質な食材の数々は殿様の領国支配の証と言えましょう。寛永6年(1629)は、加賀藩魚流通の広域ネットワークが確立するちょうど過渡期にあたるわけですが、前田の殿様利常公はこの正月料理を食べながら、自らの支配の及ぶ領国の、海の幸の味を愉しんでおられたことでしょう。まさに殿様気分。
新湊産ベニズワイガニ
のポスター
 ところで、この殿様正月料理のメニューをみて北陸の名物ベニズワイガニがないじゃないかと思っている方もおられるのではないでしょうか。
現在、北陸地方でみられる巷の「殿様御膳」を見てもベニズワイガニは料理の中心、必須の食材です。
しかし、深海に住むベニズワイガニの漁が今日のように盛んに行われるようになったのは、昭和36年に富山県魚津市の漁業者が「かご漁法」を考案した後のことだそうです。「かご漁法」はその後急速に普及し日本各地だけでなく、世界中の漁場で行われるようになりました。ベニズワイガニの食文化は結構新しい時代のことなのですね。
 このように、前田利常公の目出度い年始めの料理は、北陸ならではの海の幸が満載でした。参考にしたいところだけれど、庶民には、なかなか殿様の真似などは出来ません。しかし、気は持ちよう。我が家の正月は、足軽料理を殿様になった気持ちで食べてみようと思います。あーぁ、そう言ってちょっぴり悲しくなってきた・・・。

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