・烏梅の里、月ヶ瀬村の前田利家公伝説
 この黒いものは烏梅=うばいと申します。梅の果実にススをまぶして燻製にしてさらに乾燥させたものです。見てのとおり 烏のように黒いので烏梅。黒梅とも言います。姿は悪いですが、大変な効力を持つ優れものです。
 先ずは薬種として。「良薬、口に苦し」と言いますけれど、これは見るから苦そうで効くだろうなぁって感じです。富山市にある売薬資料館「薬種商の館金岡邸」にお伺いしたところ、「富山の薬」の中にも烏梅を配合したものがありました。
  阿膠梅連丸(あきょうばいれんがん)・・下痢の緩和の妙薬
  玉泉丸(ぎょくせんがん)・・・・・・風邪の時ののどの渇き止め薬
  烏梅丸(うばいがん)  ・・・・・回虫駆除。虫くだしの薬
 その他、烏梅の肉を止血のための傷薬とする民間療法もあったそうです。
 また、紅花から作る口紅と頬紅にも烏梅は欠くことが出来ないそうです。濃縮した紅の溶液に烏梅をゆっくりと加え、一昼夜放置しておくと、紅の色素が沈殿し固形化・泥土化するそうです。泥のようになった紅をさらに羽二重でこしたものが艶紅(つやべに)。この艶紅を、蛤の貝殻や白磁の皿などに塗って乾かして保存し、筆で溶いて化粧を施しました。日本女性の化粧は白粉と口紅・頬紅が基本でした。紅は、女性を美しく見せるだけでなく血液循環を善くする薬用効果があるとされていました。
 烏梅は染色の触媒剤としても使用されます。とくに紅花染色では、この烏梅に含まれている青酸成分を使用しなければ、布はあの美しい紅色に染まらないのです。
 奈良県添上郡月ヶ瀬尾山ではこの烏梅づくりが伝承されています。古い時代から梅の花の景勝地として知られた月ヶ瀬では梅が豊富に収穫されました。この梅を使用して月ヶ瀬では村を上げてさかんに烏梅を作り、主に京都の染色業者へと烏梅を販売していました。月ヶ瀬で作られる烏梅は、主に染色用に使用されていたのです
 烏梅づくりは、江戸時代から続く月ヶ瀬村の主要産業でしたが、明治期に化学染料が出現して以来烏梅の需要は落ち、烏梅製造者の数もすっかり減ってしまいました。現在では尾山地区に住む中西喜祥さん(大正7年生まれ)が、ただひとり烏梅の伝統手法を受け継ぎ製造を続けておられるのです。
 月ヶ瀬村で烏梅製造が始まったのかは定かではありませんが、いくつかの起源譚が伝承されています。
 ひとつは、元弘元年(1331)奈良の笠置にいた御醍醐天皇が、さらに落ち延びる時、天皇家の女官達がこの月ヶ瀬の地に逃げてこられた。村ではその女官たちの世話をした。女官の中にいた園生姫という姫君がお礼にと烏梅の製法を村人に教えたというもの。
 もうひとつの伝説は、加賀藩主の祖前田利家が、戦さにつぐ戦さで流浪の折この地を訪れ、天神社境内に多くの梅の実が落ちているのを見て烏梅を作り、京の都に送ったのが始まりだというもの。村人は利家公に教えられたとおりの製法で烏梅を作り京の都に送ると大変高価な値で売れたので、村人たちは競って梅の木を植えて烏梅づくりに励んだそうです。戦国の世、陣営移動の折に訪れた地で村おこしの産業コーディネーターまでやってのけるとは、利家公の度量の大きさを思わずにはいられませんね。この地に尾山の地名が残るのもこの利家公に由来するとか。
 加賀藩領では天神信仰がさかんであり、今も私たちは天神様を正月神様として拝んでいますが、この月ヶ瀬でも天神信仰は篤いです。この地の烏梅製造と天神信仰は深く関わっており、7月はじめに先ず天神社に参詣して天神様に作業の無事をお祈りし、その翌日から烏梅造りを始めることを慣わしとしています。また、月ヶ瀬村が発行しているパンフレットに寄せられていた中西さんの言葉には、「天神様にお供えするような気持ちで烏梅造りを続けるよう先代から言われてきた。これを続けていけば家のものが安全に暮らしていけると思って続けてきた。」とあり、天神様への信仰心がしみじみと伝わってきました。
 利家伝説の信憑性については定かではありません。まずこの地に烏梅造りがあって、そこに後から利家公伝説が付加されたのかとも思われますが、加賀藩領から遠く離れたこの月ヶ瀬に藩主前田利家公を主人公とした伝説があり、しかも梅の加工品である烏梅の起源譚となっていることにとても興味を覚えました。月ヶ瀬の烏梅と加賀藩の染色業・薬種業は繋がりがあったのかどうか気になるところです。或いは、この伝説の背景には、烏梅の買付けにこの地を訪れた、加賀商人らの活躍があったのかも知れません。  

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