・梅鉢とパッレ
 春を告げる梅の花、美しいですね。万葉集の時代から梅は歌にも読み込まれる日本人にとって馴染みの深い花です。でも、越中滞在中の大伴家持の歌の中には、越の国にて美しく咲く梅の花を読み込んだ歌はないそうですね。なぜ、家持は越中の梅の花を歌わなかったのだろう。その時代、雪深い北国である越中には、あまり梅の木は見られなかったのだろうか。あったとしても都の梅のように立派に咲き誇って家持の心をとらえるような梅はなかったのだろうかと、ひとり考えております。ところが今や梅の花は我が高岡の町においては金沢と同様「町の花」です。いたるところに梅の花は見られます。御車山祭りの曳き山、瑞龍寺、高の宮ともすれば道路のマンホールや観光キャンペーンののぼりまで。言わずと知れたことですが、加賀藩前田家の家紋が「梅の花」剣梅鉢紋です。
 なぜ、前田家の家紋が剣梅鉢紋になったのかと言えば、前田家が菅原道真の子孫であり菅原氏ゆかりの梅に因んで梅鉢の紋としたというのが通説です。前田家がこの剣梅鉢紋を使用し始めるのは、三代目藩主前田利常の時代だそうです。それまでは、一体どのような紋を使用していたのでしょうか。
高岡御車山二番町曳山車輪
金沢尾山神社門扉の透かし彫り
 瑞龍寺法堂の中央に祀られているのは仏様ではなく前田利長公の大きなご位牌です。寺院であるのに関らず、なぜ法堂に仏像が安置されていないのかは全くの謎です。この利長公のご位牌には梅鉢紋ではなくちょっと変わった紋が付されています。梅鉢を丸だけにした丸が6つの六曜紋なのです。この六曜の紋は同じく瑞龍寺の利長公の石廟にも付されています。
 話はいきなりイタリアのフィレンツェに飛びます。この写真にある丸い玉の紋章は、15.・16世紀のヨーロッパ社会で強大な財力をもって君臨したメデッチ家のもの。「パッレ」と呼ばれる紋章です。丸の数には、バリエーションがあるようですが、ユネスコ世界遺産の街フィレンツェでは、至るところにこの「パッレ」が付され、かつてのメディチ家の勢力の強大さを今に伝えています。私たちが梅鉢紋を見て加賀藩の支配力を知るかのように。
 大航海時代、イタリアのメディチ家は薬種香辛料貿易で財をなして、金融業に進出し商人相手だけでなくポルトガルやスペインといった国家を相手に金貸しをしていたとさえいいます。この「パッレ」は、メデッチ家の祖業に由来するスパイス・丸薬そして貨幣を象徴しているといわれます。
 何だか似ています、メディチ家紋章と前田家家紋。
 加賀前田家は、商工業や交易を奨励し特に薬種産業を重要視していました。薬種業は富山が有名ですが、金沢や高岡でも薬種業はさかんでした。また、工芸家や芸能家の保護育成にも熱心でした。このような特色を持つ  前田家を現在の私たちは「日本のメディチ家」と称することもあります。
前田家は、イタリアのメデッチ家のようになることを目指してしたのでしょうか。前田家がスペイン・ポルトガルからの宣教師や商人らを通じて、ヨーロッパで絶大なる勢力を持つメデッチ家の情報を得ることは可能でしょう。もしや、家紋もメディチの「パッレ」をヒントにしていたのでは。高山右近は、丸が7つの七曜紋を使ったこともありました。これもメディチ家紋章の流れを汲むものか。つかぬ想像が頭をもたげて参ります。
前田家の紋は、菅原道真ゆかりの「梅の花」なのか、はたまたメディチ家ゆかりの「丸薬」なのか、前田家御紋の謎としておきましょう。


この「梅鉢とパッレ」は金川欣司さんのエッセイ「日本海は地中海」をヒントに書きました。金川さんはインターネット上でご自分のエッセイ集を公開しておられますのでぜひご覧ください。
 言語学のお散歩
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