ちきり屋こと
藤八屋酒店
屋号の残る町 高岡
小馬出町 井本金物店
金屋町 喜多万右衛門家
(ア)タイムカプセル・高岡
 弊社のホームグラウンドである富山県高岡市についてお話します。
 高岡は慶長14年(1609年)前田利長公が開いたという歴史の古い城下町です。古名を関野といいました。高岡城はキリシタン大名の高山右近(南坊)のプランニングよって築城されたお城です。大規模な水壕で囲まれた城郭には、伏木湊まで見渡せる立派な天守閣が建っていたとも伝承されています。しかし、高岡城にいかなる建造物があったのかについては、遺構も発見されておらず、古文献の記録もあいまいであり、謎とされるところです。高岡城天守閣はさまざまに想像されていて、高岡歴史ロマンのひとつです。慶長19年(1614年)に前田利長公が亡くなったのもこの高岡城でした。翌年の元和元年に一国一城令が発令。高岡城は築城からたった5年目にして破却されたのです。
 城主と城とをともに失った高岡では、城下町としての発展を見込めなくなりました。武士たちは金沢に戻り、町人たちもだんだんと高岡を去って行き高岡は寂れていきました。しかし、その後加賀藩は、高岡町人の転出禁止令を出し、と同時に商工業保護政策を施しました。高岡は「商人と職人のまち」として再生の道を歩み始めたのです。高岡は2度生まれたわけです。
 近世の高岡町を簡単なマップにしましたのでご覧ください。このマップ、今でも充分使えそうに思えます。市街地が拡大し、また、交通の主幹となる道路には変遷がみられます。しかし、城下町特有の細く入り組んだ道は高岡の町々に今もそのまま残っていますし、町々の名とその位置はほとんどそのままです。私たちは、不便だ、なんだ、かんだいいながらも、静かな佇まいの残るこの近世からの古い町割りの中で、今も日々生活しているのです。
 高岡の町々の名前には、城下町地名の「一番町・二番町・三番町・御旅屋(おたや)町・御馬出(おんまだし)町・小馬出(こんまだし)町・桜馬場・鉄砲町」、職人町地名の「大工町・大鋸屋(おがや)町・金屋(かなや)町・桶屋町・油町・利屋(とぎや)町・風呂屋(ふろや)町・千木屋(せんぎや)町・檜物屋(ひものや)町・畳(たたみ)町・板屋町」、宿場町地名の「木町(きまち)・博労(ばくろ)町・旅篭(はたご)町・橋番(はしばん)町・長舟町」、旧城下町の木船・守山にちなんだ「木舟町・守山町」などの町名があって、かつての町の歴史を今に伝えています。
 高岡の町々のお祭りを始めとする自治会活動は、今もこの近世からの町区分によって行われています。たとえ行政区が整理統合されて、古くからの町名が地図上からなくなっても、町の名前は自治会として守っていきたいとの強い気持ちが高岡にはあります。高岡に受け継がれている町衆気質というところでしょうか。どんなに小さな町にも、町には町の誇りがあるのです。
 また、昔からの屋号も人々の間にいまだ言い伝わっていて、近世からの屋号の看板のまま今も商いをするお店も多く残っていますし、近所の親しい者どうしお互いを屋号で呼び合う昔なつかいし場面も見られます。これは、高岡に住んでいる者にとっては当たり前のことですが、アルファベットやカタカナの名前の氾濫する現代社会においては、とても貴重なことのように思います。
 また、商家では当主の襲名も続けられていて、「伝右衛門さん」「清右衛門さん」「万右衛門さん」「勘右衛門さん」。「圓兵衛さん」「利平さん」「弥平さん」に「和三郎さん」「利三郎さん」と、先祖代々の名を今も受け継いでおられます。
 なんだか、町全体が時空を越えたタイムカプセルのようです。
 余談になりますが、高岡出身の藤子不二雄さんが描いた漫画のキャラクターに時空を飛び越える能力を持つものがあります。ご存知「ドラえもん」です。「ドラえもん」にとても古風な「○○えもん」と付けられているのも、ここで述べたような高岡の気風の所産であるのかなと思ったりします。
 江戸時代初期の姿をそのままとどめているといわれる古城の水壕、山町筋の土蔵づくりの町並みや金屋町のさまのこの町並み、桃山文化を今に伝える御車山そして古文書をもとに修復された国宝高岡山瑞龍寺などの有形文化財はもちろん高岡の大切な宝物です。加えて、町名や屋号といった無形の遺産もまた大事に守り伝えたいものですね。
 このような高岡独特の気風のなか、市民には代々歴史を愛好する気質があります。言い方を変えれば昔から「歴史おたく」が多いのです。ここで、高岡の歴史愛好家たちのすばらしい成果をひとつ紹介したいと思います。高岡市では中央図書館と市民との協力で、古くからの町名の由来や古地図・祭りの調査、伝承や言い伝わっている屋号の聞き取り収集が行われ『高岡の町々と屋号』の7冊の本にまとめられました。とくに、屋号の調査は、現存する古文書や「高府安政録」「高岡史料」との照合も行われており、大変な労作だと感心しています。(『高岡の町々と屋号』は図書館と御馬出町の清文堂書店で販売されています)
 古い時代の物が大事に受け継がれ、新しい時代のものと融合している。それが高岡のよいところだと思います。

(イ)老舗企業ヤマゲン
 少なくとも 安永元年(1772年)には、先祖の室屋長兵衛(むろやちょうべい)が、当時は加賀藩の所轄であったここ高岡・横田町で商売を始めていたというのが 代々伝えられる祖先譚です。以降230年間、代を重ねて、現社長 山本衛で八代目になります。
山本家 茶の間の囲炉裏と
吹き抜け天井の枠の内
 発酵食品である酒・味噌・醤油・酢の醸造場はその起こりが古く、老舗といわれるメーカーが多いのですが、当社は味噌醸造業社のなかでも歴史の古いほうで、別添の表に見るとおり、全国で11番目に古い老舗企業なのです。(「江戸時代から伝統を継承する老舗:味噌の部」より作表)
 山元醸造株式会社の社名は、昭和26年の株式会社設立の際に6代目当主の山本元次郎の名をとって「山・元(やまげん)」としたのですが、それまでは、代々襲名してきた室屋長兵衛の名から室長(むろちょう)と呼ばれていました。

江戸期創業の味噌屋さん
会社名
創業年
所在
製造品
先祖
株式会社まるや八丁味噌延元2年1337愛知岡崎味噌 
金光味噌株式会社元和2年1616広島府中味噌木綿屋大戸久三郎
生こうじの大阪屋寛永元年1624舞鶴こうじ・味噌 
青源味噌株式会社寛永2年1625栃木宇都宮味噌青木屋源四郎
宮坂醸造株式会社寛文2年1662上諏訪酒・味噌宮坂伊兵衛有正
盛田株式会社 寛文5年 1665愛知常滑酒・味噌・醤油 
株式会社ちくま元禄初年1688江戸深川味噌乳熊屋作兵衛
合資会社八丁味噌享保年間1716愛知岡崎味噌早川久右エ門勝久
米忠味噌本店宝暦年間1751大阪味噌 
有限会社辻岡商店明和2年1765三重味噌 
イチビキ株式会社安永元年1772名古屋味噌・醤油大津屋
山元醸造株式会社安永元年1772富山こうじ・味噌室屋長兵衛
浜屋麹店天保元年1830島根出雲こうじ・味噌 
木屋本店天保年間1830熊本麦味噌 
株式会社米五天保2年1831福井味噌 
合資会社海老喜商店天保4年1833宮城味噌・醤油 
本田味噌本店江戸後期1833京都味噌 
株式会社満田屋天保5年1834福島会津若松塩・味噌 
有限会社青林堂糀店 1838山梨こうじ・味噌 
合資会社丸又商店天保14年1843愛知知多味噌・たまり三河屋宗林・宗休
大徳屋商店嘉永年間1848岩手遠野こうじ・味噌 
山家屋嘉永年間1848福島会津若松味噌 
株式会社小川屋味噌店嘉永元年1848千葉味噌・醤油 
安藤醸造元嘉永6年1854秋田角館味噌・醤油 
株式会社佐々重安政元年1854宮城仙台味噌 
マルコメ株式会社安政元年1854長野味噌 
石孫本店安政2年1855秋田湯沢酒・味噌・醤油 
合資会社和泉屋商店嘉永8年1855長野佐久味噌 
合資会社亀兵商店文久元年1861宮城仙台味噌・醤油 
株式会社はと屋文久元年1861愛知西尾味噌・白醤油・たまり 
溝口商店慶応年間1865福岡味噌 
大石味噌慶応元年1865久留米味噌 
有限会社新井武平商店慶応3年867埼玉雑穀・味噌新井源右衛門
合資会社石井味噌店慶応4年1868長野松本味噌 
庄子屋醤油店江戸末期 宮城仙台味噌 
ヒゲコ醤油味噌醸造元江戸末期 福井はまなみそ 
ふじよ高山食品本舗江戸後期 長野松本味噌 

(ウ)屋号ってなに?
 さて、長兵衛さんはなぜ味噌屋長兵衛ではなく室屋長兵衛なのでしょう。室屋とはいったい何なのでしょう。長兵衛さんの商いとはどんなものだったのでしょう。これが本稿のテーマです。
 でも、その前に、まず屋号とは何なのか、それからお話しようと思います。
 周知の通り、江戸時代の町人は姓が許されておらず名前だけでした。しかし、長兵衛・権兵衛・弥吉だけでは間違いが起こります。そこで屋号を用いたのです。屋号は本人をより詳しく他人に伝えるため使われた呼称で、本人や先祖の職業にちなんだもの、本人や先祖の出身地にちなんだものなどがありました。
 歌舞伎役者が名場面で大向うに「高麗屋(こうらいや)!」「「成田屋(なりたや)!」と呼ばれている、あれも屋号ですね。
 では、高岡の屋号で例をみてみましょう。

職業屋号 
天秤屋・塩屋・灰屋(はいや)・米屋・桶屋・樽屋・檜物屋(ひものや)・板屋・油屋・炭屋・俵屋・紙屋・蝋燭屋(ろうそくや)・唐津屋・指物屋(さしものや)・車屋・早貸屋(はやかしや)・麻屋・布屋(ぬのや)・木綿屋・綿屋(わたや)・島屋・志摩屋・(=縞屋)・晒屋(さらしや)・梅染屋(うめぞめや)・渋屋・紺屋(こんや)・赤摺屋(あかすりや)・朱屋(しゅや)・紅屋(べにや)・絹屋・針屋・糸屋・仕立屋・小間物屋(こまものや)・太物屋(ふとものや)・扇子屋(せんすや)・鏡屋・鍋屋・金屋・釜屋・床鍋屋・鍛冶屋・金物屋・厨子屋(ずしや)・錺屋(かざりや)・塗師屋(ぬしや)・漆屋・道具屋・唐笠屋・傘屋・畳屋・大鋸屋(おがや)・大工・酒屋・酢屋・室屋(むろや)・四十物屋(あいものや)・菓子屋・飴屋・茶屋・など

地名屋号  
五十里屋(いかりや)・二上屋・伏木屋・関屋・小馬出屋(こんまだしや)・福岡屋・福光屋・立 野屋・鷹栖屋(たかのすや)・井波屋・井林屋・五社屋(ごしゃや)・氷見屋・加納屋(かのや)・ 十二町屋・佐賀野屋(さがのや)・横田屋・羽広屋(はびろや)・開発屋(かいほつや)守山屋・木舟屋・増山屋・越中屋・関野屋・小松屋・越前屋・若狭屋・丸岡屋・平田屋・奈良屋・尾張屋・美濃屋・江戸屋・近江屋・伏見屋・鳥取屋・和泉屋・伊勢屋・半田屋・岩瀬屋・久々江屋・柳瀬屋・石瀬屋・大野屋・新保屋・蓮華寺屋・本江屋・北野屋・二塚屋・鷲塚屋・八塚屋・白崎屋・藤平蔵屋・沢田屋・本領屋・小杉屋・小牧屋・青井谷屋・吉田屋・尾山屋・伏間江屋・田子屋・中村屋・高木屋・矢田家・荒見崎屋・中田屋・元屋・細呂木屋(ほそろぎや) ・千代屋・宮袋屋(みやぶくろや) ・棚田屋など

地形屋号
山屋・浜屋・沢屋・湊屋

その他の屋号  
常屋(じょうや)・倉屋・蔵町屋・槙屋(まきや)・槙木屋(まきや)・巻屋・天野屋・菱屋(ひしや) 松屋・茶木屋(ちゃきや)・永守屋(ながもりや)・松屋・・三木屋・福々屋(ふくぶくや)・菊屋・ 柴屋・東屋・新屋など

 無論のこと高岡には高岡屋の屋号はありません。居住地の地名は屋号とはならないのです。 金沢や富山や氷見など、よその町には高岡屋の屋号が見られます。そして、高岡では「加賀」を号することが、商品はもちろん屋号にも禁止されていましたので「加賀屋」の屋号はありません。
 高岡の職業別屋号は鋳物や漆器や綿・綿糸・綿布・染色業に係る屋号の種類が多く、近世高岡町の産業構造をよく反映しています。現在も、高岡の銅器漆器とはともに、通産大臣指定伝統的工芸品(伝統産業工芸品)の指定を受ける高岡の主要な産業であり、熟練の職人さんたちが「伝統工芸の町・高岡」を支えています。近世中期から明治期にかけて高岡は「米」と「綿」の町として栄えました。とくに綿商人たちの活躍はめざましく、北前船の船主となって広い販路を構築した大商人も出現しました。現在の山町筋に残っている立派な土蔵づくりの家のほとんどは綿商人たちによって建てられたものです。また、染色業の屋号は、縞屋・晒屋(さらしや)・梅染屋(うめぞめや)・渋屋・紺屋(こんや)・赤摺屋(あかすりや)・朱屋(しゅや)・紅屋(べにや)と種類が多いのが特色です。染色の分業が色別に細かくなされていたことが伺えて興味深いです。
 また、菓子屋・飴屋・茶屋の屋号は、高岡の茶の湯文化を伝えるものとして関心をひかれます。高岡は現在も茶の湯をたしなむ方が多く、お茶会もよく行われているようです。高岡の和菓子には品質のよいおいしいものがたくさんあります。
 職業別屋号のなかには、現在のわたしたちには分かりにくくなっている職業もあります。灰屋、四十物屋、指物屋、檜物屋、錺屋、厨子屋、室屋とは、いったいどんな仕事をしていたのでしょうか。
 灰屋は、灰の売買をしていました。灰には木灰・炭灰・石灰などがあります。田畑の肥料として使ったり、土に混ぜて土壌の改善に使ったり、土蔵壁の建材として使ったり、酒や醤油や菜種油のろ過に使ったり、また酸性化した藍や酒や醤油の中和に使ったりと、灰の用途はさまざまです。また、灰屋は各家庭の竃からでる灰を回収するリサイクル業者でもあったのです。灰の回収には多くの人手が必要ですし、また、石灰の仕入れには大資本が必要です。灰屋は大商人でなければできない商売でした。
 四十物屋(あいものや)は海産物とくに、昆布や魚の塩物や干物を商う業者です。四十物屋のなかには北前船の船主となって北海道や青森から昆布・にしんなどを廻送し活躍した商人もいました。
 指物屋(さしものや)は秤・枡・ものさしなど計量器具の販売や調整をしていました。酒・味噌・醤油の製造や販売に秤や枡は欠かせないものです。また、鋳物職人たちにとっても地金の配合には精密な秤は不可欠です。
 檜物(ひもの)はヒノキやスギなどの薄板を曲げて作る器物のことで、それを作る職人が檜物屋です。曲げわっぱ、フルイ、コシキなどに今でも檜物の技術は生きています。
 錺屋(かざりや)の錺とは塗り物に施す金属装飾のことで高岡御車山の金属装飾が代表的な例です。今日では高岡仏壇の内部装飾に、錺屋(かざりや)の技が継承されています。
 厨子屋(ずしや)は貴重なものを収める箱物をつくる職人です。
高岡御車山の豪華絢爛な装飾。年に一度の御車山祭礼のときしか見られません。
長兵衛の屋号室屋(むろや)については後から改めて詳しくお話しますね。

 地名別屋号は高岡近隣の村の地名が多く村から町への移住が伺えます。また、守山屋・木舟屋・増山屋は近隣の古い城下町からの移住者でしょうか。しかし、近隣の町・村だけでなく小松・丸岡・越前・若狭・平田・鳥取といった北前船交易を思わせる地名や和泉・奈良・尾張・美濃・伊勢・半田・江戸・近江・伏見・といった近畿や東海道側の都市の名を冠した屋号も見られ高岡町人の交易の広さが伺えます。これらの地名には越前紙・美濃紙・伊勢びん型・和泉綿・平田木綿・半田酒など優良な特産品のイメージや江戸商人、近江商人、奈良商人など敏腕商人のイメージが付随しており、その地名を屋号とすることで店のブランド力を高めようとする商人たちのおもわくが察せられます。
 こうした屋号がいつ成立したのかは不明です。江戸時代の中期でも職業別屋号と本人の職業が一致する場合はむしろ少なく、塩屋さんが酒造屋として、飴屋さんが綿問屋として活躍しているケースなどさまざまです。
 これらの屋号をじっくり見ているとなかなかおもしろいです。今の自分に屋号をつけるとしたらなんというのかなんて想像しながら見てみてください。「電子屋」なんていう人もいるかもしれませんね。現在、高岡には「波乗道具商」なる商標のサーフボードショップがあります。
 その他の屋号はよく意味の分からないグループです。屋号のいわれを知っている方がおられればぜひ教えていただきたいと思います。
高岡の商標の例 和菓子屋さん・呉服屋さん・お茶屋さんには近世からの屋号をそのまま使っているお店が多い。また、若者のなかにはあえて古めかしい商標を使う店主もいる。
 こうした「何々屋」の屋号に続いて「何々衛門」と名前を述べ、さらに居住する町の名を冠していうのが商人の名のり方であったようです。たとえば、「毎度。高岡横田町の室屋長兵衛でございます。」と。自らの名をはっきり名乗ることが商人の基本であることは昔も今も同じです。
 こうした屋号のほかに商人たちは印をもっていました。印は旗・暖簾・前垂れ・はんてん・荷物などにほどこし、文字の読めない者にも分かるよう、また遠くからでも分かるよう工夫されたものです。「丸■」「山■」「かね■」「菱■」「角■」「ドン■」「イリヤマ■」「うろこ■」などの種類があって、たとえば「丸三」「かね市」「山大」というふうに号します。この印に「屋」をつけ屋号とすることもあります。
 弊社の山の下に元の印は室屋長兵衛の使っていた印でもありました。元次郎(もとじろう)の名はこの印の元を採った名前です。ですから、現在の山元の社名はこの印に由来するものでもあります。室屋長兵衛は山元(やまもと)屋でもあったのです。少し、ややこしい話です。
 明治からのやまもと(山本)の姓もおそらくはこの印にあやかるものだ思います。姓を山元とせず山本としたのは山元元次郎より山本元次郎のほうが、かっこうよかったからではないかと私は考えています。(5代目より長兵衛をなのらず元次郎をなのる)現在でも「キムタク」「ミスチル」「ブラピ」と縮めていう呼称がありますが、高岡商人たちも綿屋儀平さんを「綿儀(わたぎ)」、飴屋傳右衛門さんを「飴傳(あめでん)」、灰屋五兵衛さんを「灰五(はいご)」、荒見崎屋権四郎さんを「荒権(あらごん)」など、詰めて呼ぶことが多かったようです。有名な加賀の豪商銭屋五兵衛も「銭五」と呼ばれていました。室屋長兵衛こと「室長(むろちょう)」も縮めていうケースですね。
 つまり、長兵衛は「室屋」のほかに「山元屋」とも「室長」とも呼ばれていたわけです。 庶民に姓が許された明治維新の後、屋号の意味は薄らいでしまいました。しかし、屋号は人や家のルーツを伝える大切なものです。若い方たちにもこの機会に屋号というものに興味を持っていただければと思います。
 次回は、本稿の本題である室屋とは何なのかお話したいと思います。この不思議な屋号、いったい由来は何なのでしょう。(つづく・次回掲載は9月1日予定です。)

《室屋長兵衛の古文書資料》
天保九年(1838年)高岡が災害に合ったときに義捐金を集めた際の徴収名簿 「分限帳」
(高岡中央図書館蔵)3代目室屋長兵衛

嘉永2年(1848年)藩主前田斉泰公が参勤交代の帰国の際に越中を視察した後、家中総勢1726名が高岡に宿泊、そのうち荒木津太夫支配組の足軽13人が3代目室屋長兵衛の家に泊まった。泊まり心地はどうだっただろうか。
「御宿泊」(高岡中央図書館蔵)

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