(ウ)砂糖の輸入
 九州の人々が甘党だというのは、近世の朱印船貿易・南蛮貿易に由来するといわれています。すなわち、いち早くポルトガル・スペインとの交渉を持ち、中国・琉球との交易もあった九州は、堺や京都の人々とともに南蛮渡来の「砂糖」の甘味を全国に先駆けて早い時期から知りました。そして、鎖国時代には、長崎出島から入る「砂糖」を、近いという条件から取入れ易かったのです。長崎では砂糖をたくさん使った甘い食事が裕福の証拠であり、甘いお料理でもてなすことが接客の基本でした。「長崎文化は砂糖文化」とも言われるそうです。
そして、沖縄・奄美大島を支配した薩摩藩は中国から砂糖の製造法を学び、国内ではいち早く「国産砂糖」の量産に成功していました。鹿児島では「甘い料理が高級料理という信仰に近い思い込みが現在でもある」のだそうです。
九州の類まれな甘口の食文化は、海外交易や地元での砂糖生産によって作られたわけです。九州では味噌は麦みそを使います。この麦みそも甘いですね。麦みそにはさらに甘みを増すため水飴を添加したものもあります。ただし、「芋焼酎は辛口である」とある九州の男性からお伺いしました。甘党一点張りではないのですね。大変に失礼いたしました。
長崎・南蛮版画
 1563年に来航したイエスズ会神父のフロイスは日本人の味覚について次のように言っています。「われわれ(ヨーロッパ人)は甘い味を好むが日本人は塩辛いものが好みである。われわれは砂糖と卵を使って麺類を食するが日本人は 芥子や唐辛子を使う。日本人の汁は 塩辛い。日本人はわれわれのスープを塩気がないという。」この
記述は砂糖を知らない時代の日本人の味覚をよく言い当てているのだと思います。
 しかし、砂糖との遭遇は日本人の味覚に大きな変化をもたらしました。
 人は新しい食べ物に出会ったとき、その安全性を判断するのに甘さで確認する本能をもっているのだそうです。食べてみて甘ければ「まずは安心」とその食べ物を信頼します。日本人が、輸入の味覚である砂糖の甘さを受け入れることは、容易であったと思われます。バテレン宣教師たちはキリスト教の布教策として、日本人に甘い砂糖を使った南蛮菓子を与え、信徒獲得に効果をあげたとも言います。フロイス神父が「塩辛い味が好み」といった日本人の味覚は南蛮渡来の砂糖との出会いによって急速に変化し始め、鎖国時代においても砂糖の輸入量は激増の一途をたどったのです。

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