追記4 二番醤油とからいも飴
 「おおよそ飲食物はたいてい手製なり。味噌・焼酎・酢・醤油のたぐい皆 家にて作り、これを買い求めることまれなり。味噌は麦にて作る。酢・醤油ともに味よし。そうじて薩人はそれら飲食物の製法には、はなはだ長けり。」  旧長岡藩士本富安四郎著「薩摩見聞記」からの抜粋文です。「薩摩見聞記」は明治22年から25年までを薩摩で小学校教員として過ごした本富安四郎が薩摩の気風に強い関心を持って書き記した紀行文です。雪国長岡で育った安四郎にとって南国薩摩での生活は目新しさの連続であり見聞したものを書き留めずにはおらなかったのでしょう。強い衝動にかられての執筆であったと思われます。
 「薩摩見聞記」の記すように、鹿児島では味噌のみならず醤油・酢・焼酎と多品目に渡って自家製造で作られていました。これは、味噌のみを自家製造する他の地方とは大きな違いです。亜熱帯に近い温暖で多湿な風土が発酵にはとても適しており古くから自家醸造が発達したのでしょう。安四郎が特筆するのも無理はありません。また、薩摩の人々が自家製造した飲食物はおいしく、薩摩の人々は自家製造の達人だと「薩摩見聞記」は褒めています。
 「薩摩見聞記」の安四郎の記事を裏づけするように、1989年刊行の「聞き書鹿児島の食事」では鹿児島のバライティにとんだ自家醸造の民俗が多数紹介されています。
ここで鹿児島県の醤油づくりの民俗のひとつを見てみましょう。(聞き書鹿児島の食事より)「大豆3斗、小麦3斗を用意する。塩は材料1斗に五升の割で入れる。水は1石2斗入れる。小麦も大豆も平釜で炒る。しゅろの葉でつくったてかぎで混ぜながら、少し焦げるくらいにして炒る。これを臼でひく(中略)この麦と大豆を混ぜ合わせこうじ菌2袋を入れる。そして味噌同様にもろぶたにいれて積み、青かびや黄かびがでるまで手入れをしながら1週間くらい寝かせる。こうじがついたら材料をほぐして樽に移し水と塩、それにもち米一升をおかゆにしてたいたものを入れる。約1ヶ月の間毎日かき棒で混ぜる。(略)だんだん発酵してくるので桶の真ん中に簀を立てる(略)75日くらいで簀のなかにきれいに澄んだ一番醤油がたまるのでくみとって一升瓶に詰めておく。ふつうは二番醤油までとる。一番醤油をくみとった後の樽に水1斗に塩5升の割合で混ぜたものを足し、2ヶ月くらいしてから使うつどくみとる。」これは北薩摩地方で行われていた醤油の自家製造法です。麹づくりから自家製造で手がけることには驚きます。また、「二番醤油」には今日の私たちが忘れかけている懐かしい響きを感じました。
 しかし、ここで気付かされるのが現在鹿児島県で使われている甘い醤油との製法の差異です。「聞き書鹿児島の食事」で紹介されている醤油の製造法に、現在の鹿児島の醤油を特徴づけている「砂糖」は無関係です。甘味の添加と思われるのはもち米から作る「おかゆ」だけです。今日鹿児島で絶大な支持を受けている甘い醤油の味とは程遠いもののようです。
鹿児島の醤油はいつから今のように甘くなったのでしょうか。謎は深まります。  しかし、甘い醤油の萌芽ともいうべき民俗が「からいもあめ」の製法のなかにあることを見つけましたので書いておきたいと思います。
 「まず、裸麦のもやし(胚芽こうじ)を作って乾燥させ、それをひき臼でひいて粉にしておく。からいもは大釜の上まで積み上げ、水を八分目くらい入れ桶をかぶせて大量に煮る。煮あがったら先のもやしをふり入れお湯を足しながらよくかき混ぜしばらくおく。このあとしぼっていも汁をとる(略)しぼった汁を大釜に移しておよそ5時間くらい煮詰める。その煮詰めぐあいがまだとろりとしているぐらいでやめると水飴がとれる。さらに30分ぐらい煮詰めて、生こっぱ(さつまいもの生干し)の粉をひいた平ざるにとりあげる。飴がまだ冷めないうちに丸めると飴玉になり、そのままばらに広げて冷ましておくと板飴になる。」からいもとはサツマイモのことです。鹿児島ではさつまいもから、飴をつくるのです。続いて「あめを炊いた大釜にはあめがこびりついているのでそのなかに二番醤油を入れて煮立てると、醤油の色と味がよくなる。」と「聞き書鹿児島の食事」は記しています。あめの残っている釜で二番醤油を煮立てる知恵、これは何か現在の甘口醤油につながるもののように思えます。
 私は「加賀の醤油はなぜ甘い」で甘口醤油の起源は近世の輸出用醤油にあるのではないかと推察しました。それに加えて、薩摩の「から芋あめ」を作る民俗のなかに甘口醤油の萌芽とも言うべき事象があったことを指摘しておきたいと思います。
サツマイモは江戸時代に薩摩藩から全国へと普及した。富山で売薬さんが、金沢では銭屋五兵衛がサツマイモの苗を当地に持ち帰ったと言い伝わっている。

追記5 銭屋と富山
 富山県砺波平野の南に位置する城端町福光町は古くから養蚕を生業とする町でした。加賀藩は、殖産政策の一環としてこの地の絹織物産業を保護育成しました。銭屋五兵衛・喜太郎の親子もこの町の商人たちに資金援助をするなど絹織物産業の育成には、並々ならぬ尽力をしたと言われています。また、銭屋は地元農家にニシン肥料を斡旋して米作の土地効率アップに貢献したり、蝋燭・漆器・和紙などの諸産業を奨励しました。南砺波の人たちにとって銭屋親子は忘れがたい恩人なのです。
 以上、福光町文化財保護委員長 定村 武雄先生より聞いたお話を元に書かせていただきました。

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