(ヌ) 喜太郎と太平次
 そして、これまで五兵衛と太平次とのつながりばかりを追ってきましたが、太平次と交流が深かったのは、実は太平次より6歳年上といわれる五兵衛の息子喜太郎ではなかったかとの思いが強く起こってきます。銭屋喜太郎と浜崎太平次の出会いはあったのでしょうか。喜太郎と船頭久次郎の船が東北で大豆を集め、塩・麦・水に恵まれた北陸の地で醤油とし、その北陸産の醤油を船積みし昆布ロードを南下して奄美大島に運ぶ。太平次は受け取った醤油と黒砂糖とを混合させて輸出用醤油を作る。そしてヤパンセ・ソヤーと書かれた瓶に詰め密かに東アジアやヨーロッパに向け輸出する。銭屋の船が日本海を北へと運び、北方のアイヌや山丹・ロシアの人々にも輸出する。しかも大量に!そんなプロジェクトがあったのかもしれません。琉球口、長崎口、対馬口そして松前口をつなぐ「海上の道」の能力を十二分に活かしきった、海の男たちの壮大なプロジェクトです。
 今日、沿岸部各所に点在する甘口醤油愛用地は、昆布や金銀銅など海外輸出品の品々を買い集め、海外雄飛の交易を目指していた男たちの野望の足跡なのかもしれません。
浜崎太平次が亡くなったのは1863年。何者かによる他殺であったと伝えられます。同年後を追うように、銭屋喜太郎は城端別院善徳寺を参拝した後、福光という静かな絹織物の町で、自ら命を絶ちその生涯を閉じました。父五兵衛が河北潟事件で牢死した12年後のことです。
金沢大野に居住した大野弁吉。加賀の平賀源内といわれた彼は銭屋五兵衛のブレインだったとも。カラクリを得意とし、写真撮影の技術をも習得していたという彼も海外(韓国)への渡航経験の持ち主。写真・扇風機内部のお人形
大野カラクリ記念館 076-266-1311 

 石川県金沢市大野町4-甲2-29

Copyright 2004 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.