(ニ) 五兵衛の醤油
 ここでちょっと冒険のようですが、五兵衛と太平次の接点を「醤油」から考えてみます。学者さんでは有得ない切り口でしょう。
前回も紹介しましたが、石川県の金沢大野は近世からの伝統ある醤油生産地です。また、北前船の船主たちの町でもありました。現在でも金沢大野の醤油屋さんには、「先祖が廻船業をしていた」「廻送業と醤油醸造業を兼業していた」という方が多いのですよ。銭屋五兵衛が本店を構えた宮腰はこの醤油の町大野と隣接する町です。そして、銭屋の家も醤油屋を営んでいたといわれます。
この地に醤油醸造業が起こった理由には、無論加賀藩の保護政策もありますが、海上交易を通じて原材料を調達しやすかったということがあげられます。すなわち、隆盛してきた廻送業者たちの活躍を活かし、能登地方の塩と小麦、東北地方の大豆、この醤油の三大原料が、大野では容易に確保できたのです。また、当時醸造業の先進地であった関西地方と人や物資の往来が頻繁であったので醤油づくりの手法に関する情報も多分にもたらされていたことでしょう。
大野醤油は日本海側随一の大消費地である金沢に供給されるにとどまらず、加賀藩の特産品として藩外にも移出されていました。醤油の輸送に、北前の船が利用されたことは言うまでもありません。前回も申しましたが、加賀のお殿様などは大野醤油を、船一艘チャーターして諸味ごと江戸屋敷に運びいれていたのです。百万石のお殿様ともなるとスケールが違いますね。
宮越の銭屋でも大野の醤油味噌屋と同様、渡海船により原材料を運び入れ、醤油を製造し、出来上がった醤油は樽に詰めて航路で出荷する商いに従事していたのでしょう。
(右)北前船の模型

(下)樽
銭屋五兵衛記念館の展示品より
 また、私事になりますが、当社は高岡市内を流れる千保川を背にして建っています。千保川は今では川幅が細くなっていますが、かつては渡海船が入ってこられるほどの大きな川でした。当社が立地する横田町では川幅が一段と広くなっており、川の真ん中に島も存在していたのです。千保川に面して綿・米・ニシン・昆布・四十物・酒や醤油・味噌を商う家々が軒を連ねていました。また、藩米を集荷する施設である蔵宿もあったようです。かつては、先祖の長兵衛もこの輸送の大動脈をおおいに利用して船で物資の出入りを行っていたのです。
 青函地方は北陸の海商たちにとって縁の深いところ。下北の野辺地湊は、昆布・ニシン・南部ひのき・南部大豆・尾去沢銅山の粗銅などを移出する、北前の船で賑わった。野辺地に集まる南部大豆は良質であり、北陸そして大阪まで回送されて味噌醤油の原料として使用された。この大豆の産地に北陸から移住して醤油を作る者もいた。今でも野辺地や南部には先祖が北陸出身だという醤油屋さんが多い。
野辺地の豪商野村冶三郎が文政
10年(1827)にたてた灯篭
 北陸の醤油味噌屋は東北地方から大豆を買いつけ、産した醤油味噌を主に東北や蝦夷(北海道)に向けて出荷していたのですから、北陸の醤油味噌屋と北前船による東北・蝦夷地との交易とは、まことに深い関りがあるわけです。
 東北産の大豆の中でも特に「南部大豆」は有名でした。北陸の海商や醤油味噌屋にとって「南部大豆」は一大ブランドとして定着していました。大豆の産地、南部や南部大豆の積出港であった下北半島の位置する野辺地・横浜・七戸・大畑の一帯では、北陸と同様に砂糖入りの甘口醤油を愛用していますが、これはまさしくかつての北前船による交易の影響でしょう。
 銭屋の持船は、先の表にもあるように南部藩津軽藩の御用船に取立てられており、南部藩津軽藩が産する御用銅とそして御用銅と混載のかたちで南部大豆の運搬をまかされていたのです。船のバランスをとるのにも銅と大豆の混載は都合がよかったようです。
 銭屋は青森に支店を構えてこの北の地方での商いを確固たるものにしました。また、青森の商人に対して金貸しもしていたそうです。まさしく「銭屋」です。また、弘前藩に対しても大名貸しをしていたといいますから、銭屋がいかに深くこの土地の経済に入り込んでいたかがわかります。青森は銭屋にとっての第二の故郷といってもよいでしょう。
 銭屋五兵衛の青森経営については、木越隆三氏の「銭屋五兵衛と北前船の時代」(北國新聞社)が詳しいです。学術的内容ではありますが、もと高校の教壇に立っておられた木越さんが「高校で日本史を教えた生徒たちにも本書をおくりたい」とおっしゃっているように、読みやすい表現になっているのがうれしいです。銭屋五兵衛についてもっと詳しく知りたい方は是非に読んでください。私の書いていることではあまりに言葉足らずです。
 さて、数ある銭屋五兵衛研究の中に、銭屋のもともとの家業、醤油屋に焦点を定めたものは皆無といってよいと思います。しかし、銭屋の南部大豆輸送を考えたとき、この家業がクローズアップされて目の前に迫ってきます。
 大豆は今日でも天候により収穫量に年毎の大きな変動があって、相場の不安定な産物です。また、米ほど保存が利かず、収穫から短期間のうちに売りさばかなければならないのも相場を不安定にしている原因です。不作の時には価格が高騰し豊作が過ぎると価格は下落します。味噌醤油屋の親父連中は皆、この大豆相場の変動にいつも気を揉んでいなければなりません。その年の得も損も「お豆さん」の相場次第です。
 銭屋五兵衛の生きた時代にもやはり大豆相場の変動は大きかったでしょう。不作のときには高く売る、豊作の時には市場に出回る量をセーブし大豆の市場価格を調整する一方、余剰大豆を味噌醤油に変え資産として備蓄する。味噌醤油は長期間にわたって貯蔵でき、売ればお金に替わりますから、銭屋の財テクや資産運用の工夫として当然あったことだと思います。大豆の回船業と味噌醤油屋との両輪であるからできる効率的な経営方法です。先にも述べましたが、東北からの大豆輸送に従事しながら味噌醤油の製造を行い、生産した味噌醤油を東北・蝦夷地に移出する、つまりは行って商い帰って商う「大豆ののこぎり商法」は北前船の時代における北陸型醸造屋の身上とするところであって、銭屋などはその筆頭とも言うべき存在でしょう。
 以上のように、南部大豆の輸送を牛耳っていた銭屋にとって、醤油屋としての顔もまた重要であったと考えます。
大豆の選別機
 さて、そろそろ太平次の醤油と五平衛の醤油を結びつけなければなりません。
もう一度、先の青函地方の絵図をご覧ください。陸奥湾をはさんだ野辺地の対岸に田名部という地名があります。田名部諸湊ともいい、大畑・大間・奥戸・大平・九艘泊・川内・脇野沢・牛滝・佐井・易国間の湊をまとめての呼称でした。南部藩最古の湊であって、昆布・俵物・南部ひのき・そして大豆の交易拠点として重要な役割を果たしていました。南部藩の代官所もここ田名部に置かれていました。この田名部諸湊もまた、銭屋の青森経営には、欠かせない拠点。田名部には銭屋五兵衛の息子喜太郎が奉納したという灯篭があり銭屋とこの地とのつながりをひっそりと今に伝えています。恐山の参道入り口にあるという灯篭には「嘉永元戌申六月 加州宮腰 願主 銭屋喜太郎 積船 山本 豊栄丸 久次郎」と刻まれています。嘉永元(1848)は絶頂期にあった銭屋の御手船常豊丸が沈没してしまった年。船の沈没は2月のことでした。銭屋にとってはかつてないほどの大損害。しかも藩の御手船を沈めてしまったのですから責任は重大です。
 常豊丸は「加賀のタイタニック?」ともいうべき大型商船で、加賀藩の造船技術のすべてを結集させたものでした。完成まじかには、藩主自らが見学。以来、造船所には大勢の野次馬が押しかけ黒山の人だかりとなり、またその野次馬を目当てに54件もの屋台が宮越に立ち並んだと伝えられています。この官民含めての夢の商船が沈んでしまったのです。銭屋の受けた打撃は言葉に尽くせません。
 この灯篭は常豊丸沈没事件の4ヶ月後の6月に奉納されています。「海難事故賀が二度と起こらぬにように」との喜太郎の願掛けでしょうか、また心気一転、出なおしの意気込みの現れでしょうか。久次郎の名、ちょっと頭の片隅に。
 喜太郎は銭屋の「当主」。会社でいうなら社長です。家督をゆずった五兵衛は当時「ご隠居」と呼ばれていたようです。青森津軽藩の御用商人の滝屋善五郎が書き残した「加州逗留(とうりゅう)日記」には、 「昼過、宮の腰(現在の金石)江(え)罷越(まかりこし)、銭屋喜太郎様江伺候処、御座敷ニ而(て)色々御馳走(ごちそう)被下、御隠居様、旦那様、佐八様、次郎兵衛様不引切(ひきもきらず)御咄(はなし)、段々遅ク相成今晩止宿」 とあり、青森の商人滝屋善五郎が五兵衛というより当主である喜太郎を訪ねて加賀の銭屋宅を訪問したという意識が伝わってきます。銭屋の青森経営では喜太郎さんがキーマンであったようですよ。
 さて、この田名部なのですが、代官所跡でなんと、あの西洋の文字のはいった輸出用醤油瓶の一部が発掘されているのです!! なぜ田名部にコンプラ瓶が。信じられないような話です。輸出用醤油瓶がどのような経緯でこの地に、とどけられたかは定かではありません。長崎出島の本家本元のコンプラ瓶なのかもしれませんし、太平次の輸出用醤油瓶なのかもしれません。長崎出島のコンプラ醤油が長崎こんぷら株仲間とオランダ商館との提携商品で他に出回らない性格の商品であったことを考えると、長崎から遠く離れた陸奥湾に面した湊町にもたらされることは不自然であり、むしろ密貿易を狙って企画された太平次の醤油のほうが、このような場所にももたらされる可能性があるように思えます。
 ここで、有名な銭屋疑獄事件。この銭屋疑獄事件は、嘉永5年(1852)に銭屋が河北潟に毒物を流したと疑いで一族が捕らえられ、死刑・牢死・自殺を含めて、9名が命を落とすという大事件でした。銭屋五兵衛はこのとき80歳の高齢で牢につながれ無念の牢死をしています。この疑獄事件では、なぜか銭屋の青森支店にも疑いが及びました。そして、田名部湊のひとつ川内に居住し銭屋の持船の船頭をしていた金浜屋久次郎が、共犯の疑いで逮捕されたのです。彼はその時60歳。40年以上のキャリアを持つ熟練の船頭だったといいます。久次郎は永牢という重罪に裁かれ、結局青森に帰ることなく加賀藩公事場の牢内で命を落しました。なぜ、田名部の船頭、金浜屋久次郎が重罪に処されたのか当時世間は首をひねったといいます。田名部を拠点に大規模な密輸が行われ、それに銭屋と金浜屋久次郎が加担していたのではないかとのうわさも流れました。
 さて、田名部の恐山参道灯篭に名のあった船頭・久次郎。金浜屋久次郎と同一人物とのこと。なんだか、因縁深い灯篭ですね。
田名部という陸奥湾の湊とそこから発掘されたコンプラ瓶のかけらを介して、太平次と銭屋との距離がにわかに近くなってきたようです。コンブラ瓶は田名部のほか、北海道の沿岸部各所で発掘報告が見られます。
北海道函館市五稜郭
 五稜郭は函館開港にともなう奉行所の移転先として建てられた日本初の西洋式城塞。五稜星型の城塞は16〜17世紀に西洋で発達した様式だ。開国後の函館はさまざまな国籍の人が行交う貿易都市として発展した。この五稜郭の跡でもコンブラ瓶が出土している。五稜郭は安政4年(1857)着工元治元年(1864)竣工。設計は竹田斐三郎

 北海道沿岸部や田名部から、コンプラ瓶が出土することは何を意味しているのでしょう。北方のコンプラ瓶が輸出目的のものだったのかどうか興味深いところです。コンプラ醤油の輸出には九州からの南方ルートのほかに、北方ルートがあったのかもしれません。鎖国と呼ばれた時代が終わり、文久元年(1864年)日本からロシアへの出貿易が始まりました。この時の貿易船亀田丸には、絹・布・馬鈴薯とともに醤油がつまれていたことを付け加えておきます。亀田丸の醤油がどのような容器にはいっていたのか定かではありませんが、これって、ロシアのリピーターさんを狙ってものではないですか。

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