(ナ) 五兵衛と太平次
金石にある銭屋五兵衛のブロンズ像(都賀田勇馬作)西洋風の合羽を羽織り、後ろ手には愛用していた望遠鏡を持つ。海外雄飛の交易を行った五兵衛らしい
 指宿の浜崎太平次の型破りな海洋交易、驚きましたね。
 加賀にも「海の百万石」と異名をとった銭屋五兵衛というビックな海商がいたのですよ。銭屋五兵衛の交易範囲も日本の海にとどまらず、鎖国体制の中 禁制を破って、北はアイヌ人・山丹人そしてロシア人との交易から、南はジャワや南半球のタスマニアやはたまたアメリカ合衆国サンフランシスコにまで交易範囲が及んでいたといいますから驚きです。
銭屋 浜崎家 情勢
1773 五兵衛誕生。醤油屋質屋の家業
1811 廻送業を始める
1825 五兵衛隠居(53歳)
    喜太郎家督となる
1830加賀藩年寄奥村栄実銭屋に接近
1834 南部藩津軽藩の御用船に
     取立てられる



1840 奥村の財政政策始まる
1842 御手船常豊丸完成
1843 御手船裁許に任命され
    常安丸が御手船となる
1846 加賀藩、永代渡海を許す
1847 藩主斉泰にお目見え
1848 御手船常豊丸沈没


1852 河北潟事件。五兵衛牢死(80歳)


1857 喜太郎出牢






1864 喜太郎自殺(56歳)

1814 太平次誕生


1830 調所広郷の財政改革始まる

1836 調所と太平次接近。
    太平次の超大型船稲荷丸完成。
    廻送業本格化。





1846 太平次、長者番付で西の
     大関となる
1848 調所広郷、自殺
1851 斉彬公の集成館事業始まる





1858 島津斉彬急死(50歳)




1863 太平次大阪に死す(50歳)


1825 異国船無二念払令



1836 天保の大飢饉
1837 新潟抜荷事件
    モリソン号事件
1838 長者丸遭難

1840 アヘン戦争








1853 ペリー来航
1854 日米和親条約

1858 日米修好通商条約1859 出島オランダ
    商館廃止
1860 桜田門外の変
 銭五は安永2年(1773)に生まれ、嘉永5年(1852)に亡くなっていますから、太平次より40歳ほど銭五のほうが年上。生きた時代には少しずれがあるようです。しかし、太平次が長者番付で西の大関となった1846年には、銭屋も加賀藩より御手船の永代渡海の許しを得ており、浜崎家と銭屋との全盛期とはほぼ重なります。そのとき五平衛は海運業界の重鎮とも言うべき70代の古老、太平次は30歳になったばかりの若き海洋王。このふたりに接点があったのでしょうか。
 上の表に見るように銭屋五兵衛は藩の年寄役奥村栄実の後援を得て海商として力量を発揮し、また浜崎太平次は藩家老調所広郷の後援を契機に大成長をとげ、九州一の豪商にのし上がったのです。両者が藩と結びついた時期がぴったり一致しています。

御手船 加賀藩は「御手船(おてせん)」と呼ばれる船で、藩米を大坂へ送っていた。銭屋五兵衛はその御手船を管理する「御手船裁許」という許可書を得て、御手船の造営や運営を任されていた。銭屋は御手船・常豊丸、常安丸を新造し、船を一手に仕切りその財力を高めた。

五兵衛は薩摩藩ともつながりを持ち、蝦夷地の昆布を運び薩摩に砂糖を入手する交易にもたずさわっていたと言われています。薩摩藩は昆布の収集のため、富山売薬だけでなく多数の北前海商たちとコンタクトを取っていたようです。
金沢には、銭屋五兵衛を記念して建てられた記念館があります。そちらの展示に下記のものを見つけました。
 銭屋五兵衛の南西諸島における対英国貿易伝説
南西諸島の口之永良部島には英国人が居住する西洋館があり薩摩藩が密貿易を行っていたが、銭屋もこの島に昆布などを運び込み、英国人と砂糖の密貿易を行っていたという。河北潟事件で五兵衛が牢死したことを知った薩摩藩はすぐに西洋館を壊し、密貿易の証拠を隠滅した。(金沢市銭屋五兵衛記念館)
 藩との結束・昆布と砂糖の交易、海外渡航伝説、外国人との密貿易。これらは五兵衛と太平次との共通項です。
銭屋五兵衛が使用した羅針盤  
北前の船乗りたちはどのような世界観を持っていたのだろう。五兵衛はオランダ製の羅針盤も所有していた。
「銭五の館」の展示品より

銭五の館
銭屋五兵衛記念館
石川県銭屋五兵衛記念館 
〒920-0336石川県金沢市金石本町口55  電話076-267-7744  

 日本海沿岸から下関・瀬戸内海を経由して大阪に至る西回り航路は、寛永16年(1639年)に宮腰から加賀藩の藩米を積んで大坂に運んだのが始まりとされる。3代藩主前田利常の時のことだ。寛文12年(1672年)に河村瑞賢が、津軽海峡を経て江戸に至る東回り航路を開き、またその後の改良によって西回り航路が青森・松前まで延びた。これによって北前船の時代が到来したといわれる。
 かつて加賀の北前船寄港地だった湊町では今でも特に甘い醤油が好まれる。

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