(ト) 太平次の醤油
 さて、私が浜崎太平次に興味を持っているのは、富山売薬の昆布輸送との関りからだけではありません。太平次はなんと、醤油工場設立に挑戦しているのです。それが、太平次ならではの、びっくりするような醤油工場なのです。
奄美大島の海

伝記「浜崎太平次唐船太平記」より
 島津斉彬は嘉永4年(1851)、父斉興のあとをついで起つとともに、大いに藩政拡充と文明の開化に努めた。浜崎太平次はこの斉彬のふかい理解と援助をうけたので、かれの天分はいかんなく発揮され、この時代がかれにとっては、一番全盛期のときでもあったといわれている。ちょうどそのころ、太平次は肥前の国長崎港でフランス人某と醤油を輸出するという約束をした。そこでかれはそのことを斉彬に相談したところ、斉彬も大いによろこんで、さっそく大島に西洋風の醤油製造所をもうけて、大々的に醸造を始めたのである。
 大島にできた醤油製造所は薩摩藩と浜崎太平次の共同の事業であった。(中略)だがその当時、醤油は輸出禁止品の中に加わっていたのでそれを外国と取引することは秘密に行わなければならなかった。

「鹿児島百年・上巻 第7章海の男たち」南日本新聞社
醤油には逸話がある。浜崎太平次が長崎でフランス人某と醤油の密貿易を契約した。これに薩摩藩が一枚加わった。奄美大島に西洋風の醤油工場を設け、大島から積み出した。〔中略〕醤油の瓶は、ジャパンショウユとローマ字の入った薩摩焼きの瓶であったらしく、いまでは骨董品として珍重される。

鹿児島県歴史資料センター
黎明館ホームページより

波佐見町「陶芸の館」ホームペ ージより
太平次はフランス人と醤油の密貿易の契約を交わし、奄美大島に西洋風の醤油工場を建設していたのです。しかも、薩摩藩との共同でことが運んでいたのです。
この話には、薩摩藩の山田壮右衛門・井上新右衛門・園田喜八、浜崎家の中村八左衛門・高崎覚兵衛といった具体的な人物名まで出てきます。まったくの虚偽ではなさそうですよ。
現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館には、JAPANSCHZOYA(ヤパンセ・ソヤー日本の醤油)と書かれた輸出用の醤油瓶が所蔵されています。また同じく鹿児島の島津尚古集成館にはJAPANSCHZOYAと書かれた3本の瓶が収蔵されています。白磁・青磁・赤絵の三種類というとても珍しいものです。奄美大島で作られた醤油は、このような瓶に詰められて南海の大海原へと積み出されていったのでしょうか。
これは長崎のコンプラ仲間が行っていたオランダ東インド会社へ向けての醤油輸出を真似たもの。品質の良さで海外に定評のあった長崎のコンプラ醤油に便乗した偽物です。
しかし、この偽物を侮るべきではありませんよ。ご存知のように今でも醤油は「ソイソース」の名で外国人に親しまれています。さらに大豆は「ソイ・ビーン」、味噌は「ソイビーン・パステ・ミソ」などといっています。「ソイ」は「醤油」の薩摩方言だそうです。海外で薩摩の「ソイ」が定着していることを考えると薩摩藩と太平次の醤油輸出はかなりのものだったのかもしれませんね。偽物が本物を上回る人気を得ることも世の中にはあるもの。
こちらは、大村藩波佐見で焼かれたというコンプラ瓶です。長崎から輸出されていた本家本元のほうです。下部にCPDの文字がはいっています。CPDの商標は初期のものにはなく後期になって加えられたものだとか。なんでもコンプラ醤油の偽物が大量に出回ったのでオランダ商人からクレームを受け、長崎出島から出荷されるコンプラ醤油には本物であることを主張するためにCPDの商標が付されるようになったそうです。


 オランダからクレームがくるほどの大量の偽物。CPD商標の追加は太平次の醤油が大量にでまわったことが契機かもしれませんね。ちなみにCPDはコンブラドールОMRAORの略だそうです。現在NTT、NHK、NECと略字の商標が使われていますが、その第一号はこのコンプラ醤油のCPDとのこと。時代の先駆けです。
 ですが、本当に奄美産太平次の醤油が存在したのかどうか疑いの声もあります。
長崎奉行所跡で大量のコンプラ瓶が出土したことは、井伏鱒二によって紹介されたことも契機となってよく知られています。また、波佐見や有田では考古学的な資料としてコンプラ瓶が採取されています。しかし、今までのところ鹿児島では博物館・資料館の所蔵品以外には発見されていませんし、奄美大島からもコンプラ瓶の発見は報告を聞きません。
また、次のような記述も見られます。

西南文運史論 武藤長平著
斉彬は安政4年(1857)に至ってオランダ人と大島或いは口之永良部島の中で貿易せんとことを約し幕府もまた公然之を許可することとなったから、藩吏数名を派遣してその準備をなさしめ国産として蝋・硫黄・紙・油等の製造を改良し醤油を改醸し、もって貿易品に充ていよいよ安政5年の秋より通商開始の約であった、然るに同年7月に斉彬の死去によってその一切の計画を停止した。

 これを見ると、安政4年(1857)に計画した醤油の輸出は薩摩藩主斉彬公の死によって白紙化したようです。ここで記述されているのは、薩摩藩が進めていた集成館事業のこと。斉彬が藩主となると外国と貿易をしていくために、貿易品の開発を始めました。磯には日本初の工業コンビナート「集成館」が作られ、1200人もの技術者がここで働いていました。集成館事業はすばらしい成果をあげながらも、斉彬の死去とともにわずか7年目にしてたち切れになったのです。謎が深まってきましたね。

コンプラ醤油について 鎖国時代、日本の醤油が長崎からオランダ東インド会社を通じて東南アジアやヨーロッパに輸出されていた。醤油の容器は当初は樽や不定形の瓶であったが、次第に定型化し掲載写真のようなものになった。オランダ人相手に交易をしていた長崎の特権商人は、ポルトガル語「コンプラドール仲買人」にちなんで「金富羅株仲間」の名でよばれていた。このコンプラにあやかり、今日、容器をコンプラ瓶・醤油をコンプラ醤油と呼んでいる。ヨーロッパでも日本の醤油は高い評価を得ていたといわれ、食通で知られるフランスのルイ14世が料理の隠し味に好んで醤油を使用したという話は有名。幕末期にはかなりの量がアジアを中心に輸出されており、利幅の大きい商材であったという。醤油のほかに酒も同型の容器で輸出されていた。醤油瓶にはJAPANSCHZOYA(ヤパンセ・ソヤー日本の醤油)、酒瓶には JAPANNSCHZAKY(ヤパンセ・サキー日本の酒)と書かれている。
現在、波佐見町工業組合青年部が当時の製法を復元してコンブラ瓶は製造販売している。 コンブラ瓶はインテリアとしても素敵。
お問い合せは「赤井倉 電話0956-85-3359」

 太平次の醤油工場は奄美大島にあったといいます。外国人との秘密の取引に南海の島は好都合だったのでしょう。そして、奄美大島工場の立地条件として私がぜひとも注目したいのは、ここが薩摩藩最大の、いや国内最大の砂糖生産の島であったということです。
インドネシアの醤油は糖度のちがいによって種類がある。ケチャップ・アシンとマニス。インドネシアで醤油はケチャップ。東南アジアの醤油はとても甘い!!

もう、長らく私の甘い醤油の物語にお付き合いくださっている方ならばお分かりでしょう。この奄美大島の醤油工場が産する醤油は、砂糖入りの甘口醤油だったと予想できることを。太平次は砂糖島・奄美大島で砂糖をたっぷり投入した甘口醤油を製造しこれを輸出用の瓶に詰めて輸出していたのではないでしょうか。
 さらに想像をたくましくすれば、鹿児島県尚古集成館所蔵の青磁、白磁、赤絵の3種類の瓶。これは今日私たち醤油メーカーが醤油の糖度や味の違いによってラベルの色やデザインを変えるのと同様、中身の違いを表示するための手段だったのではないでしょうか。
 奄美大島には島津斉彬が集成館事業の一環として建設した西洋式の精糖工場がありました。奄美大島で黒砂糖生産をしていた島津藩は、黒砂糖の価格下落に対処すべく、白糖製造を計画していたのです。西洋式の工場は英国人技師、ウォートロスとマッキンライターによって奄美島の瀬留・金久・須古・久慈の4箇所に建てられたといい、その遺構は現在も確認できるそうです。また、奄美大島の金久には「らんかん山」という小高い山があるそうですが、「らんかん」は「蘭館」、すなわち外国人屋敷のこと。幕末期、この山の天辺に外国人屋敷があったので蘭館山の名がついたそうです。この山の麓には、オランダ人が作った白糖工場があったと土地の人たちは言っています。太平次の醤油伝説では、どうも、これら奄美島の外国人由来の白糖工場と醤油工場の情報が混同されているようですよ。
 製糖工場で醤油づくり。不可能ではないと思います。私は、この奄美島産の太平次醤油こそが、甘口醤油のルーツなのではないかと考えています。太平次醤油が長崎コンブラ醤油のコピーであったことを思えば、本家本元のほうも砂糖入りの甘口であったに違いありません。
 問題は、原料をどうしていたかです。奄美で、大量の輸出醤油を製造できるほど、醤油の主原料が調達できたのかとどうか。大豆・麦・塩の大量入手は容易だったのでしょうか。おそらくは不可能でしょう。であるならば、他所からの移入ということになります。この点、後ほど考えて見る必要があると思います。
 ところで、富山売薬たちはこの太平次醤油の味を知っていたと思いますか。案外、薩摩藩から薩摩の特産品のひとつとして「せっかくだから、富山の薬売りの営業力で、薩摩の醤油も売って来い」と手渡され、「へ、へぇー」と受取っていたかも?! 富山売薬たちのふるさと東岩瀬・水橋の醤油もやはり甘口です。そう言えば、その昔醤油は薬と考えられていたという話、聞いたことがありますよ。

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