(テ) 指宿の太平次
 指宿の浜崎太平次。浜崎あゆみなら知っていても浜崎太平次の名を知る人はそういないかも知れません。歴史教科書にもその名を見ることはできないのですから、よほどの「豪商おたく」か、「幕末薩摩藩おたく」でないと知らないかも。
 しかし最近、南原幹雄著「豪商伝 指宿の太平次」という小説が角川書店から発売されるなど、太平次の注目度はぐっとアップしているようですよ。そして、地元指宿には、指宿の地下から豊富に湧き出す温泉のように熱い心の太平次ファンが、たくさんおられるのです。

指宿太平次公園に立つ浜崎太平次像。
右手には扇子を、左手には分度器を持っている。

ここで紹介する浜崎太平次は、今から150年前の幕末期に活躍した指宿の商人。「山木」の屋号で代々廻船商を営む浜崎家の8代目です。薩摩藩家老調所広郷の後援を得て、薩摩藩の財政政策に関与、唐物商いと黒砂糖商いで藩に多大の利益をもたらし明治維新の原動力ともなった九州一の大商人なのです。
「えっ、明治維新の原動力となったのって昆布じゃなかったでしたっけ?」
まぁ、まぁ、お待ち下さい。
「若山木」の名で呼ばれた浜崎太平次は若いころからその敏腕ぶりが評判でした。彼の生涯を綴った伝記「浜崎太平次唐船太平記」は次のように述べています。
(浜崎太平次)は、琉球諸島から中国の沿岸を経て南下し、さらに北上して九州・四国・中国の近海をはじめ、遠く新潟・北海道あたりにまで船路をのばして大いに活躍した。その間、ヨーロッパ人や中国人などと秘密の貿易に従事する一方、薩摩の各港でも外国人と、みずから直接取引きの主役となった。あるいは、またはるか南清のアモイやジャワなどにも回航して、大胆不敵な取引に、その天分を遺憾なく発揮したである。

温泉の町指宿は砂湯で有名。指宿温泉は弱塩泉。12000世帯うち1/3の4300 世帯に配湯管があり家庭で温泉が楽しめる。うらやましいお話。
浜崎太平次が「海洋王」とも「密貿易王」とも言われる所以がここにあります。
ビックな人だったのですねぇ、太平次さんは。
      
 そのころ、先祖室屋長兵衛といえば、嘉永2年(1849年)藩主前田斉泰公の参勤交代の一行1726名が高岡に御泊りになるというので、北陸街道を「したにー、したにー」の声も高く、横田町長楽寺横の大木戸から高岡入りした大行列を、ご町内の皆さんとともに「へ、へー」と土下座でお迎え。晩方には行列の中の足軽さん13名に宿を貸したりしていたのです。同じ時代の話とは思えませんね。(長兵衛さん、室屋って何?参照)

 そして、昆布の消費日本一の私たち富山県人にとって注目すべきことには、浜崎太平次の仕事の主幹が唐物商いと黒砂糖商いそして、蝦夷地から琉球への昆布輸送であったということです。特に、薩摩から琉球への昆布輸送は太平次が家老調所広郷の直々の任命によって担っていたようです。富山売薬が蝦夷地から運んだ昆布も薩摩でこの浜崎太平次に手渡されていたと考えられるのです。
薩摩富士、開聞岳
(922メートル)。
菜の花は1月の終りから咲き始めるそうだ。富山売薬薩摩組のメンバーもこの風景を見たのだろうか。

指宿の写真協力2点
(社)鹿児島県観光連盟
 先日、私は郷原茂樹氏著「太平次を見つけに」という本を読みました。「太平次を見つけに」では郷原さんが浜崎太平次の足跡を追って全国行脚しながら、太平次の紹介をしていきます。この本は郷原さんの太平次研究の集大成とも言うべきもの。しかも読みやすく楽しい内容です。富山売薬が随所に登場しており、富山県人にとってはとても興味深いです。郷原さんは指宿市のお向かい鹿屋市在住。唐芋(からいも)菓子のメーカーを経営する一方で、太平次研究をし、そして本の出版や講演活動もこなし、ご当地ソングの作詞もやってのけ、現在は太平次を主人公にした小説を出筆中というマルチぶりです。富山の風土や富山売薬にとても興味を持っておられ、もう5回ほども富山を訪れておられるとのこと。うれしいですね。富山の薬売りたちも出筆中の小説に登場するのでしょうか。とても、楽しみです。
 実は、浜崎太平次が「明治維新の原動力となった」とおっしゃったのも郷原さんの「太平次を見つけに」に書かれていたフレーズ。拝借させて戴きました。

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