(ツ) 長者丸の遭難、昆布の荷受人は誰?
薩摩への昆布輸送は、常に海難事故と隣合せのものでした。しかも、日本海側の港で幕府の密貿易監視が強化され、摘発事件が続々と聞かれるようになると富山売薬たちは警戒心を働かせ、海難事故の可能性は高いが、幕府の監視の比較的あまい太平洋側の東回り航路で薩摩に至ろうとしていたようです。
昆布輸送の梱包形態
大阪・段野昆布さんのホームページより
天保九年(1838)、越中富山の長者丸という650石積みの中規模船が9名の船乗りを乗せ富山の東岩瀬を出港しました。船は大坂・新潟と荷物を廻送した後、北に進路をとりました。松前で昆布600石を積込んだ長者丸は、太平洋側の東回り航路へ進み、三陸海岸を経由し釜石唐荷(とうに)の湊を出航。沖に出たところで突然のはげしい嵐に逢い難破しました。当時、船が嵐に巻き込まれると船乗りたちは、高波と暴風に身を任せるばかり、ただひたすらに神仏に祈るだけで何のする術もなかったのです。まさに板子一枚下は地獄。
富山の老舗くすり屋、池田屋の裏出口の側にひっそりと祀られている祠。中には携帯仏と呼ばれる、手のひら大の厨子に納められた阿弥陀様が。売薬さんや北前船の船乗りたちは旅先にこのような小さな仏様を携帯し心の支えとした。池田屋では今も毎日の献花を欠かさない。
さて、この長者丸は越中売薬薩摩組の中心的人物であった富山古寺町の能登屋兵右衛門(密田家)の持ち船で、密かに昆布を薩摩に輸送する途中であったと言います。
そして、薩摩では長者丸が輸送する昆布を待っていた男がありました。それは浜崎太平次(はまさきたへいじ)いう指宿の商人でした。
約5年後生き残った長者丸の乗組員たちが奇跡的にも日本へと帰還しました。彼らはアメリカの捕鯨船に救助されていたのです。この長者丸の漂流記は帰国した乗組員のひとり次郎吉が語り、幕府の役人によって記録されました。次郎吉は何カ国もの外国の言葉を理解し、記憶力に優れ、また絵の上手な男でした。次郎吉の残した見聞記は、次郎吉たちが転々とした国々の風俗を伝える貴重な資料として、平凡社の東洋文庫「蕃談・漂流の記録1」に収められています。次郎吉の描いた人物画や風景画にも心惹かれます。
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