(タ)砂糖の道・昆布の道

 砂糖の甘味にすっかり魅了された日本人は自国でとれない高価な砂糖の消費をどんどん延ばしていきました。輸出国本位ともいえる砂糖交易の増大によって、日本側の輸出品であった金・銀・銅が著しく海外に流出し、次第に国内財貨の疲弊が危惧されるようになりました。それにかわる交易品として「昆布」が注目され蝦夷地の昆布漁場の開拓が進められる一方で、砂糖国産化を求める声も高くなりました。『農学全書』を著した宮崎安貞はその著の中で「砂糖の原料である甘藷栽培を習得して国内に多く甘藷が収穫できるようになったならば国内の財貨が外国に費やし取られることを防止する何よりの助けとなるだろう。甘藷栽培・砂糖製造の方法を世に広めた人物は我国の富に尽くした者として永く讃えられるだろう」と述べています。
沖縄産黒砂糖

 江戸時代中期、まず薩摩藩の主導によって国産砂糖の時代が訪れました。薩摩藩は、沖縄諸島の島々を支配して黒砂糖を大量生産させ、これを廉価で仕入れて大坂商人らに高値で販売していました。薩摩藩は黒砂糖を売り大坂に集散された「昆布」を仕入れていました。薩摩の黒砂糖は北前商人たちの昆布と売買され、北前船の各寄港地へと運ばれていったのです。薩摩藩はまた自らの持ち船で北陸地方まで行き、黒砂糖を売り昆布の買入れていたとも伝えられています。薩摩藩の黒砂糖は昆布ロードを遡行して回送されたのです。
 薩摩藩と結託していた越中売薬薩摩組といわれる廻船商人たちも昆布の交換品として唐薬種だけでなく砂糖を入手する場面がありました。昆布交易にたずさわっていた北前商人たちにとって、砂糖は昆布との主要な交換品でした。昆布の輸送経路は、砂糖の輸送経路と接続・融合していたのです。関東・東海地方に比べ北前船が往来する西日本や日本海沿岸地方では、昆布の食文化が豊かな発展を見せ、また砂糖文化の発達も早かったのです。
 醤油と砂糖を混合させ甘口醤油を作るアイデアは、昆布と砂糖の交易に携わった人たちの中から生まれてきたとの予測は可能でしょう。甘口醤油を愛用している地域と昆布を多く消費する地域とが、ほぼ一致しているわけは、昆布ロードを温床として培われた昆布砂糖のリンク式の交易に原因があるのです。そして、昆布と砂糖との交易地で誕生した甘口醤油は地回りの廻送船によって周辺の町々にもその手法が伝播されました。九州でも北陸でもそして山口県でも海岸部の醤油がとくに甘いといわれるのは、甘口醤油が潮風にさらされ辛くなった漁師の舌を緩和するためや新鮮な魚の刺身とよくマッチするためではなく、甘口醤油の手法が廻船商人たちによって昆布ロードを海岸沿いに伝達されたからにほかなりません。
 私たちの甘口醤油が一般化し地元のお客様のお台所に指定席を持つようになったのは戦後の統制経済が解除された後のことです。新たな手法の導入もありました。しかし、そのルーツを探れば、古く近世の海上交易の中にたどり着きます。昆布と砂糖との交易が行われる、昆布ロードの主要な寄港地で段々に甘口醤油の姿は形成され、さらに海伝いに周辺各地に伝播し地域の食文化に根を下ろしました。そして、地元の食材を生かす味として地域の皆様から綿々と時代を越えて愛されてきたのです。
 甘口醤油を愛用している地域
  =昆布の消費量が多く昆布の食文化が発達している地域
  =かつての昆布ロードの中継地・寄港地とその周辺の地域
  =昆布と砂糖のリンク式交易が行われていた地域
 前回お話した高山右近たち加賀キリシタンが、加賀に砂糖文化を導入した人たち=甘口醤油の種蒔きをした人たちとするならば昆布を舞台に活躍し、昆布を砂糖に換える交易に携わった北前の廻船商人や越中売薬たちは、その種に水をやり発芽させた人たちです。彼らの供給する砂糖がなければ、甘口醤油がこの世に登場することはなかったでしょう。
 しかし、国産砂糖が流通するようになってもまだ高級であった砂糖を、醤油にいれようなどという発想はどのようにして生まれてきたものなのでしょうか。贅沢極まりない話です。何かよほどの契機がなければ醤油と砂糖の融合は考えられないことのように思います。
 次回はいよいよ砂糖と醤油の融合の契機について考えてみたいと思います。そんなわけで、次回の主人公は、鎖国時代、極東アジアの海を舞台に活躍したといわれる加賀の海洋王銭屋五兵衛と陶器でできた醤油の瓶です。銭五と甘口醤油、どうつながりがあるのかどうぞお楽しみに! 
五月初旬の掲載です。

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