(シ)唐人阿蘭陀南京無双玉簾

 最近知ったことなのですが、「あっさて、あっさて、さて、さて、」で始まる軽妙な調子の「南京玉すだれ」は、富山の薬売りが「五箇山民謡」の「こきりこ」や「編み竹踊り」の道具を参考にして考案し全国に広めたものだそうです。南京玉すだれはもと「唐人阿蘭陀南京無双玉簾(とうじんおらんだなんきんむそうたますだれ)」という異国情緒あふれるとてもゴージャスな名前だったとのこと。その名は富山の薬の原産地表示といったところ。富山の薬がジャコウ・人参・ゴオウといった中国渡来の薬や南蛮渡来の秘薬に由来することをピーアールし、薬の効力のイメージアップをねらってのネーミングでしょうね。けっして鼻くそ丸めてなんかいないですよというわけです。東北地方には富山の薬売りのことを「唐人(とうじん)さん」と呼んでいた地域もあり、このことからも富山の薬に「舶来品の唐薬種」のイメージがオーバーラップしていたことが伺えます。(ちなみに、平成14年3月に、五箇山平村は日本南京玉すだれ協会から「南京玉すだれ発祥の地」の認定を受けています。)
ささらを手にして踊るこきりこ節

 中国との昆布貿易で一番得をしたのは薩摩藩でしたが、陰ながらこの密貿易に貢献していた富山の薬売りたちも海外からの舶来薬種が手に入り易いという利点を得たのです。富山売薬の「南京玉すだれ」のパフォーマンスや「唐人さん」の呼称も薩摩藩と結んだ密貿易なくしては生まれなかったのかもしれません。
江戸時代、輸入薬種は長崎から大坂の薬種問屋に廻送され、次いで大坂から全国各地の薬種商へと流通していました。富山売薬の薬種もこの大坂から入るものであったとされています。しかし、琉球・薩摩経路で富山に入るいわゆる「抜け荷」の薬種も大きな意味を持っていたと思われます。
 越中売薬薩摩組による昆布の廻送は享保年間(1716-1736)のころに始まり明治の中ごろまで続けられました。大量の唐薬種が安定供給されるルートを手にいれた越中富山では、製薬産業が発達しました。現在でも、製薬は富山の主幹産業であり、富山が「薬の富山」として知名度が高いのにはこうした歴史背景があったからなのです。

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