(コ)昆布ロードと富山

昆布漁で水揚げされたばかりの昆布
 昆布ロードを知っておられますか。江戸時代からの昆布の流通路をこう呼んでいるのです。北海道大学の大石圭一先生が『昆布の道』という書物の中で紹介され有名になりました。富山と沖縄でなぜ昆布がよく食べられるようになったのかについては、この大石氏の著作のなかにその理由が詳しく述べられていますので、その内容を参考にしながらお話を進めたいと思います。
 かなり古い時代から蝦夷地や青森で採れた昆布の廻送は行われていたようですがその起源は定かではありません。その昔、昆布は廻船商人たちによって日本海を海岸沿いに輸送され福井の敦賀のあたりで中継された後、陸路や琵琶湖の水路を経て都へともたらされていました。この時代の昆布輸送には近江商人が深く関わっていたそうです。京のみやこにもたらされた昆布は、京懐石の料理に欠くことのできない素材となり今日に至っています。
江戸時代、加賀藩の藩米廻送によって西回り航路が開かれた後、北前船の交易が活発化すると山陰地方の海路から下関・門司を経て瀬戸内海を通り、天下の台所大坂へ昆布がもたらされるようになりました。現在でも昆布相場の主導権が大阪市場にあるのは、この時代の大坂昆布商人たちの活躍に由来します。
昆布を運ぶルートはさらに玄海灘を通って南にのび鎖国時代・唯一の貿易港であった長崎出島から清王朝の中国へと続いていました。昆布は海外に輸出されていたのです。
また、もうひとつに大坂で大坂商人から鹿児島薩摩藩に引き渡され琉球へ、あるいは北前商人や近江商人から薩摩藩へそして琉球へ、琉球で中継された昆布はさらに清へという南方ルートもありました。さらには、東廻り航路で三陸海岸から東海・四国地方を通って薩摩・琉球へ至る太平洋ルートもあったそうです。薩摩・琉球を経由するほうはいわゆる「抜け荷」密貿易です。 
昆布は清王朝時代の中国では甲状腺の風土病に効く薬とされ、高値で取引されたそうです。中国人は薬として昆布をほしがっていました。これに目をつけた薩摩藩は、支配下にあった琉球から清への朝貢貿易を利用して清に昆布を送るルートを手中に納めました。昆布は日本北端の蝦夷地から日本列島を縦断し南端の長崎口・琉球口とよばれる輸出ゲートを越えて中国・清へと輸送されていたのです。この壮大な海上の道が昆布ロードです。
昆布輸送の中継基地となっていたところでは現在でも地域の食文化の中に昆布がしっかりと根をはっています。昆布ロードの残した食文化は今も健在です。北陸で昆布が多く消費されるのは、昆布輸送ルートの代表的な寄港地があり、北陸の人々が昆布輸送に深く関わっていたからにほかなりません。昆布輸送は北陸の北前商人たちの大切な生活の糧でした。
 下の図は富山を中心に見た昆布ロードです。そしてピンク色の部分は甘口醤油が愛好されている地域です。

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