にしん釜鋳造の終わり
 昭和29年(1954)を最後に北海道からにしんの姿は消えました。北の海が湧いたにしん漁は今では昔語りとなってしまいました。北原ミレイの「石狩晩歌」に「♪あれからにしんはどこへいったやら」と歌われているとおりです。高岡におけるにしん釜鋳造の歴史も、にしん漁の終焉とともに幕を閉じました。
北海道西岸部や樺太の海岸には今もなお、多くのにしん釜が放置されたままになっていると聞きますが、高岡市金屋町の一角にも、にしん釜の工場跡が今も風雪に晒され残っています。工場内には、底の丸いもの、角のあるもの、大小さまざまなサイズのにしん釜や、その鋳型や溶鉱炉が往時のままに放置され、まるで時間が止まってしまったかのようです。北海道や樺太に今も残るにしん釜のなかには、この工場で鋳造されたものも多いのではないでしょうか。
 今では誰からも見向かれることのない工場跡ですが、にしん釜づくりが盛んであった時代を偲び、語り継ぐには格好の歴史資料であり、保存活用が期待されるところです。にしん景気は全国に様々な形で波及しましたが、にしん釜鋳造の歴史は、北海道との結びつきが深かった高岡の鋳造業ならではの特殊事情であり、この工場跡は全国的に見ても希少価値の高い産業遺産でありましょう。
  高岡鋳物の近代史は、象嵌や彫金で装飾された美術銅器が万国博覧会や産業博覧会へ出品されたことや、ジャポニズム・ブームに乗って海外輸出された華々しい栄光の歴史ばかりが注目されています。しかし、全国的ブームを巻き起こしたにしん景気を陰ながら支えた産業工芸品であるにしん釜の歴史にも、今一度目を向けてもらいたいものだと思います。
今の千保川 伏木港
千保川の河岸にあるにしん釜工場跡の様子

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