にしん百万石時代
 にしんは春の産卵期に北海道西岸に大挙して現れることから、「春告魚」とも呼ばれていました。「にしん百万石時代」といわれた、明治13年から36年(1880〜1904)頃には、信じがたいほどの漁獲がありました。にしんが群れをなして海岸に押し寄せると、海が盛り上がって津波のように見えるほどであったそうです。北の海はにしん漁の活気に溢れていました。
新商品

「日本地理風俗大系」 (新光社・昭和5年発行)より
留萌(るもい)でのシメカスづくりの様子。
圧搾機脇の丸く白いのがにしん釜

 北海道におけるにしん漁のピークは明治30年(1897)で、年間約97万トン(130万石)もの漁獲量に達しました。97万トンと言われても、なんだかピンと来ませんが、それが東京ドーム3杯分に相当する量と聞かされると驚愕です。この豊漁によって北海道では数多くの「にしん大尽」が誕生し、あるものは故郷に豪邸を建てて錦を飾り、またあるものは「にしん御殿」と呼ばれる大型の作業場や邸宅を道内に構えたのです。
  爆発的なにしん豊漁に伴い、にしん釜の需要も増加しました。高岡の鋳物業者の中には、明治維新後に北海道の小樽に進出して、にしん釜の鋳造所を設けたものもありました。金屋町の金森藤平(かなもりとうべい)家では、明治時代はじめにおこった戊辰戦争の頃に、2人の鋳物職人を小樽に送って、ヤマト鋳造所(ト)の名でにしん釜の生産拠点を構え、大変な活況であったと伝えられています。
 当時の高岡鋳物は、古式のたたら吹き鋳造から溶鉱炉による近代的鋳造に発展を遂げ、生産力が格段に高まったことに加え、日清日露両戦争後の植民地経営により大陸から安価な鉄地金を入手できるようになったことが、当地のにしん釜づくりには好条件となりました。また、第一次世界大戦の影響で西洋列強が東アジアから撤退すると、日本海は日本汽船の独壇場となり、いわゆる「日本海時代」を迎えました。これに乗じて高岡産にしん釜は樺太(からふと)や朝鮮半島北部のにしん漁場にもさかんに移出されるようになったのです。
朝鮮編
『日本地理風俗大系・朝鮮編』新光社
昭和5年発刊より
 右の写真は、朝鮮半島でのにしん肥料作りの風景です。日本と同じ方法でにしん肥料を作っていたことがうかがえます。この写真にも圧搾機の横に丸いにしん釜が写っています。これが高岡産かどうかは判明しませんが、その可能性は極めて高いのではないでしょうか。
 金屋町には、「昔はにしん釜の注文が殺到し、夜も寝ないで作っていた」という記憶が、町の古老たちによって今も語り伝えられています。

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