にしん釜の移出
新商品
明治21年刊『中越商工便覧』に掲載されている金屋町の喜多万右衛門家。工場に釜万の屋号。
ミセにたくさんの大釜を描いている。
  『高岡銅器史』によれば、高岡産のにしん釜は、天保年間(1830〜43)の頃、釜万こと、喜多万右衛門(きたまんえもん)によってはじめて蝦夷(えぞ=北海道)に移出されました。
 当時はライバル産地も少なくありませんでした。安政4年(1857)に、長岡藩士森一馬(もり・かずま)が書いた蝦夷地出張記録 「罕有(かんゆう)日記」には、長岡産のにしん釜のことが記されています。森ら出張団一行が小樽を視察したとき、にしん釜で湯を沸かして入浴している出稼ぎ漁師を見ました。そして、その大釜の産地は「故郷」つまり長岡だと日記に書き留めているのです。当時、長岡鋳物師(いもじ)や柏崎鋳物師の活躍はさかんでした。 ※鋳物師=鋳物を作る職人
 しかし、高岡鋳物師の一番のライバルは、なんといっても能登穴水の中居鋳物師(なかいいもじ)たちでした。中居鋳物師は、和泉国堺の鋳物師の一派が、鎌倉時代の終わりごろに穴水に定住したといわれ、江戸時代には加賀藩の手厚い保護のもと、生業を発展させました。彼らは、藩の直轄事業であった能登塩の生産に欠かせない塩釜の鋳造を中心に多様な鍋釜をつくりました。ちなみに、茶釜で有名な宮崎寒雉(みやざき・かんち)は中居鋳物師の出身とされています。
 この中居鋳物師が北海道向けのにしん釜販売に着手したのは、一説に延宝4年(1676)。これを信じるならば、高岡鋳物師が天保年間(1830〜43)から移出したのに比べると、彼らは150年以上も早く北海道へ進出していたのです。
 また、中居鋳物師の子孫、国田家に伝わる古文書『国田文書』には、中居村の国田伝十郎が北海道へ大釜を販売した記録が次のように記されており、幕末期における中居鋳物師の販売力の一端をうかがうことができます。

  • 万延元年(1860)、江差(えさし)の万年屋喜八に「鰯釜」25枚を販売
  • 元治元年(1864)、松前(まつまえ)の張江利右衛門に「大能登釜」29枚を販売
  • 慶応3年(1867)、松前の工藤忠兵衛に「鯡大釜」47枚を販売
  • 同4年、江差の万年屋喜八に「鯡釜」30枚を販売
  • 明治元年、松前の工藤忠兵衛に「鰯釜」10枚を販売
『国田文書』から察するに、中居鋳物師たちの大釜は、松前・江差など北海道西岸南部の町に移出されていたようです。それに比べ後発の高岡鋳物師たちの市場は、小樽・留萌・稚内・樺太など西岸北部に広がっていました。明治以降、にしんの漁場は北へ北へと移動しましたが、高岡産にしん釜は、にしんの移動を追って北へ北へと市場を築いていったと考えられます。 藩政時代が終わり、加賀藩の保護がなくなると、高岡鋳物師のめざましい発展とは明暗を成すように、中居鋳物師は急速に衰退しました。中居鋳物師の大半は、鋳型作りで鍛えた腕を活かし左官職人となって北海道へと移住、能登穴水に残った3軒のみが鍋釜を作っていたと伝えられています。そして、大正13年(1924)には、鋳物業を終焉させています。 高岡産のにしん釜が、市場競争に打ち勝ち、シェアを伸ばしていった理由は、安価で、厚みが比較的薄く軽量で、熱伝導に優れていて燃料が少なくて済んだこと。つまり今でいうハイブリット構造で定評を得たことにありました。明治から昭和初期には、他の鋳物産地をすっかり封じ込み、高岡産のにしん釜が独占的市場を獲得するに到ったのです。 高岡産にしん釜には、つばの部分に「高岡」や「宋(カネソウこと、富田宗治郎家の屋号)」「キ(キタキこと、喜多喜三郎家の屋号)」などの刻印が付されていたのが目印でした。また、四六(4尺6寸のこと)など、釜の口径のサイズも刻印も付されていました。

Copyright 2010 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.