にしん釜って何?
  今回はお釜(かま)のはなし・・・・。お釜はお釜でも、にしん釜です。

 昆布巻きの芯にしたり、蕎麦(そば)との相性も抜群のにしん。その卵巣、数の子は、お節料理には欠かせない食材です。それから、ジャガイモと煮たり、ナスと煮たり、大根と米こうじと塩で漬物にしたり、にしんは日本人にとってポピュラーな食材ですが、さて、にしん釜って何でしょう。「そんなの聞いたこともない」「もしや、にしんの昆布巻きを煮るお釜のこと」って? そりゃ、違いますぅ。
 かつて北の海でにしん漁が大変にさかんであったことは、「♪やーれん、そーらん」のソーラン節や八代亜紀の舟歌「♪沖のかもめに〜潮時聞けば」など歌にもなっていますから、若い方たちもご存知でしょう。にしん釜とは、北海道などの海岸で大量に水揚げされたにしんを茹でるのに使用されていた、大きな鉄釜のことです。にしん釜とも、いわし釜とも、あぶら釜ともいい、にしんを茹でる露天の作業場を釜場と呼んでいました。大男2人がゆったり五右衛門風呂を楽しめるくらいの、口径6尺(約180p)を越える超特大釜もあったそうですよ。
 釜場では、海水もろともにしんを大釜に放り込み、一度に1千〜2千匹を釜茹でしました。そして茹で上がったにしんを釜から取り出し、圧搾機に入れて重石(おもし)をかけてギューッと絞り、魚油とカスに分留していました。魚油は灯油に、カスは発酵させ乾燥させ肥料にしていたのです。にしんから作った肥料は「シメカス」「ニシンカス」とも呼ばれて、綿、みかん、藍、紅花など商品作物の栽培や、稲作に使用されていました。にしん肥料は養分に富み、「金肥」とも呼ばれて重宝がられました。にしんは食材としてよりも、実は肥料として使用されるほうがずっと多かったのです。
 北前船の寄港地伏木を外港に持ち、北海道との交易がさかんであった高岡では、地場産業の鋳物技術を活かしたにしん釜の生産が極めて盛大でした。特に明治から大正にかけてのにしん豊漁の時代、にしん釜は高岡鋳物の主力商品で、生産の中心地は千保川左岸に位置する金屋町でした。
たまごがけごはん
昭和初期頃の金屋町の鋳物工場の様子
 大正9年4月10日の地元紙『高岡新報』には「鰯釜需要多し」の見出しの記事があります。

 本市金屋町の釜万喜多其の他23工場に於いて製造に係る鰯釜は今年北海道方面の豊漁に連れて盛んに需要あり、目下製造に全力を傾注し居れり、而して此頃毎日 千保川岸より長舟に該釜を積み出されてドンドン、伏木港へ運搬され居るが、今年の生産個数は約5千個の見込にて、1個50円平均とせば、総額25万円となる訳也。

千保川
100年前の千保川新幸橋付近 小嵐明氏所蔵
 なんと当時、年間5千個ものにしん釜(=鰯・いわし釜)が金屋町で鋳造され、長舟に積んで千保川を伝い、伏木港から北海道方面に向けどんどん出荷されていたというのです。
 左の写真の風景は、今から100年ほど前、大正時代の金屋町。千保川に架かる新幸(しんこう)橋の下を川舟が通って行く様子です。川岸には何本もの鋳物工場の煙突が建っていて、当時の鋳物業の隆盛ぶりがうかがえます。写真を虫眼鏡でよく見ると、煙突に、般若清助(はんにゃ・せいすけ)工場、ヤマト鋳造、喜多喜(きたき)、釜万(かままん)などの名前が記されています。当時、これらの工場では、にしん釜がさかんに作られていました。
今の千保川 伏木港
今の千保川新幸橋付近
藤田正英氏撮影
にしん釜の積出港であった伏木港の様子
(大正時代)
藤田四郎右衛門家
明治21年に発刊された『中越商工便覧』に掲載されている金屋町の藤田四郎右衛門家。
千保川には帆掛船が行交う。
金屋町の鋳物業者は、原材料や燃料の搬入、製品の搬出に千保川の舟運を活用していた。


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