高岡初のレストラン
 2年間の修行で銀座の華やかさを満喫し、西洋食文化の薫陶を受けた梶川さん、
明治26年に出来た高岡米穀取引所
(御馬出町)
(NAT高岡100年プロジェクトより)
明治25年には少々モダンボーイとなって高岡に帰ってきました。そして高岡市御馬出町で初心も新たに「風玉堂」というパン屋を始めたのです。無論、高岡のパン屋第一号でした。当時の御馬出町は高岡米商会所、高岡物産展示所を中心に、郵便局・銀行・証券取引所・米穀商などが立ち並ぶ高岡経済の中心地、その盛況ぶりは「北陸のウォール街」と異名をとるほど。梶川さんの風玉堂はその一角、「高岡無尽」(当時の消費者金融)の隣にありました。梶川さん、米の取引で賑わう町のまんなかでパン売りとは一興を感じる話です。

 梶川さんが先にもお話したような経緯の末、このパン屋の二階を改装して高岡初の洋食レストランを開店したのはパン屋開業から8年後の明治33年(1900)。
 実は、この年高岡では歴史的な大事件がありました。高岡大火です。梶川さんのレストランとパン屋もこのとき被災してしまったようです。
明治末の守山町
西洋建築の高岡郵便局は明治43年築
この大火は、3589戸もの家屋を焼き尽くした大惨事ではありましたが、極めて保守的であった高岡の地に新たな文化が芽吹き始める契機となりました。山町筋に今も残る伝統的建造物群は、市の条例によって防火性の高い土蔵造り建築にすることが義務づけられ、新たな都市デザインが出現しました。山町筋の建造物群には、当時流行したハイカラな西洋建築の影響がみられるのが特徴です。それはちょうど、東京の銀座通りが明治5年の大火の後、東京府の建築制限令によって煉瓦づくりの洋風の町並みへと生まれ変わったことに似ています。
 また、この頃、高岡駅と伏木港が近代的施設として整備され、高岡はいよいよ北陸の商都としてふさわしい姿となっていきました。明治37年には、高岡の町に初めて電燈が点りました。
 その後、梶川さんは御馬出町から片原横町に店舗を移設します。その時期や移転の動機を知る手がかりはありませんが、大正3年(1814)の高岡開町300年の節目の年に、西洋風ゴシック様式による高岡市庁舎が片原町の角、今の北陸銀行高岡本店の場所に新築されていますので、梶川さんのレストランもこれを前後して、隣接する片原横町に移設したものかと予想されます。これからは片原町通りの時代だと読んだのでしょう。
明治31年中越鉄道の処女運行
明治中期の高岡駅
片原横町にあった高岡電灯社
片原町にあった高岡市庁舎
(NAT高岡100年プロジェクトより)
 
 大正時代の片原町・片原横町の通りは、梶川亮太郎さんのほか、高岡で初めてレコードを販売した高島屋さんや、「高岡なんでも元祖」の堀井勝二医師ら、前衛的な人たちが居住していました。堀井医師は特筆すべき人物で、高岡で初めて写真を撮り、初めて飛行機に乗り、初めて西洋式猟銃を撃ち、初めて自家用自動車を所有した人です。高岡における紳士的道楽の発端は全て堀井医師にあったといってもよく、彼はなんでも一番にやらねば気が済みませんでした。類は友を呼ぶといいますから、梶川さんと堀井医師とには、きっと親しい近所づきあいがあったのでしょうね。堀井医師が、宝亭のテーブルで蓄音機から流れるジャズに耳を傾けながら梶川さんの料理に舌鼓を打つなんて場面があったのかもしれません。
 片原横町やその近隣には洒落た洋風建築が残っていて当時の面影を今に伝えています。梶川さんのレストランがどんなお店だったのかはっきりしませんが、古い洋風建築のなかに、その面影は伝えられているのかもしれません。
 このように、梶川さんは高岡の洋食の歴史を語るに欠かせない人物です。彼は新たな潮流を敏感に意識して、機を逃さずその波に乗っていく事で活路を拓いていった人物でした。また、臆することなく東京や京都へと修行の場を求め自己研鑽に励む、野心家であり努力家でした。高岡に、このような人物があったことを、私たちは記憶にとどめておきたいものです。
 梶川さんの宝亭のコロッケを食べたことがあるというお年寄りに伺ったところ、それはじゃがいも使った俵型の小さなコロッケだったそうです。
 明治・大正のころ、コロッケの材料であるじゃがいもは、北海道から伏木港へ汽船や和船によって豊富に運びこまれていました。その航路が、北前船交易の伝統を引き継ぐものであったことはいうまでもないでしょう。梶川さんのレストランの厨房にもたらされていたのも、北海道からのじゃがいもだったに違いありません。地元には「にっしんとじゃがいもの煮たが」「つる豆とじゃがいもの煮たが」「じゃがいもとたまねぎのおつけ」などというポピュラーな郷土料理があるように、じゃがいもはとても庶民的な食材です。
 「洋食」というフィルターを通したじゃがいも料理として、高岡コロッケは高岡のまちに定着しました。高岡コロッケもまた、北海道との交易に由来する郷土料理のひとつなのです。
 新たな料理が庶民の中に浸透していくには、それが高価なものではなく誰にも気安く口に出来るものでなくてはなりません。コロッケは一部の上流階級の人々のみが食していたセレブな「クロケット」から、北海道で量産されるじゃがいもを使用した「コロッケ」に変身したことにより、庶民の味となり得ました。梶川さんの宝亭に始まった高岡コロッケは、肉屋さんや家庭の台所へと広がり、やがて高岡の庶民文化を代表する逸品となりました。そして今も、家族団らんの食卓の中心に指定席を獲得し続けているのです。

(贅沢食ばかりが食文化ではありません。また、高級で贅沢な食べ物の研究ばかりを食文化研究とよぶことは大きなあやまりです。最近の雑誌には「食文化」という言葉が、あちらこちらに踊っていますが、使い方をもっと考えるべきではないのかと思うことがあります)

梶川亮太郎のレストランの歩み  
   
   
   
明治23年 東京の風月堂で修行をする
明治25年 高岡市御馬出町で風玉堂パン屋を始める
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
明治33年 亮太郎、ある新聞に「高岡は新鋭の気風を嫌う時代遅れ仏都で西洋料理の店はただの一軒もない」と書かれたことに噴気して、京都の東洋亭で修行を積む。風玉堂パン屋の二階を改装して、高岡初の洋食レストランを始める。
   
   
   
   
   
  後に、片原横町に移転し「宝亭
  レストラン」を新装オープンする。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
大正14年 店は繁盛。高岡新報に「高岡の元祖レストラン」として紹介される。
明治22年 高岡市が誕生する
  御馬出町に西洋建築の高岡銀行ができる
   
   
   
明治26年 高岡新報刊行
イギリス人建築家の設計でレンガ建ての高岡紡績が、千保川右岸にできる
明治27年 日清戦争勃発
明治28年 千保川大洪水
明治29年 千保川大洪水 
伏木暴風により船舶に大被害
明治31年 高岡―城端間鉄道開通 高岡―金沢間鉄道開通 高岡駅開業
明治33年 高岡大火
(1900) 防火対策として土蔵づくりの家が奨励される
   
   
   
   
   
明治37年 日露戦争勃発
高岡に電燈がつく
御旅屋町・末広町ができる
明治40年 北海道で男爵いもの栽培はじまる
大正元年 小矢部川・庄川分離
(1912) 伏木港第一期改修工事完成
大正3年 高岡開町 300年 
片原町に市庁舎移転 片原横町に西洋風ゴシック様式で完成  
高岡初の映画館 
帝国館(小馬出町)開館
高岡瓦斯設立 第一次世界大戦勃発
大正4年 赤レンガの高岡共立銀行
(今の富山銀行が建つ)
大正6年 「コロッケの歌」大ヒット
大正7年 魚津で米騒動
大正8年 公設市場開設
(片原町現北陸銀行真後)
この頃、片原横町に高島屋レコード店開業
大正12年 関東大震災
   
   
 

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