東京の
 梶川さんが修行をした東京のとは、洋菓子のゴーフルで有名なあの東京。江戸時代のは幕府御用の和菓子屋でしたが、慶応4年(1868)の戊辰戦争のときには江戸に入った薩摩藩からの注文を受けて、兵士の携帯用の黒ごまいり兵糧パンを5000人分納入しており、これがのパン作りの始まりとされています。
乾蒸餅製造之要趣』の中には、

「薩摩兵糧方より、兵糧麺包(めんぽう)の製造を命ぜられし時に、弊堂()は、黒胡麻入の麺包を、携帯に便利なるよう製し、5000人分を納めたりき。しかるに、この薩摩の兵、磐城平より若松の戦まで、兵糧を炊く暇なき時、この麺包によりて、その便利を実験せられ……」

とあります。麺包(めんぽう)とはパンのこと。米はその都度カマドで炊かねばならず、煙がのぼるので敵に居場所を知られることにもなりかねませんが、パンは保存が利き携帯が便利だということから重宝な兵糧とされました。
 は祖業の和菓子 に加え明治2年にパンの販売を開始。のちに、洋菓子・西洋料理にも手を広げました。明治5年(1872)、米津松造が京橋南伝馬町総本店よりのれんを分けてもらい独立、明治10年に銀座に開店。現在の東京の基礎を築かれます。
 当時の銀座のまちは明治5年(1872)の大火で、銀座、木挽町、築地にかけて4800戸が焼失してしまったのを契機に、ヨーロッパ風の町づくりを目指すこととし、東京府の建築制限令によって洋風煉瓦づくりの町並みへと変貌を遂げはじめました。明治7年(1874)には銀座通りにガス灯が設備され、文明開化の象徴である鹿鳴館が開館し、山高帽にロイド眼鏡のモダンボーイ、洋装のモダンガールが闊歩する、流行最先端の町となったのです。はそんな銀座通りのなかでも、きわだって西洋文化の香り高いお店でした。米津のは東京府内にいくつもの支店を構え、新たな食文化の発信基地となりました。
慶応4年 、薩摩藩に兵糧パン(黒ゴマ入ビスケット)5,000人分を納入
明治2年 、パンの販売開始
明治5年 両国若松町に“白扇に月”の暖簾を分けてもらい、米津風月堂を開業
明治7年 リキュールボンボンを製造、“甘露糖”と名付け発売
明治8年 ビスケットを製造販売開始
明治9年 アイスクリーム製造機械購入
明治10年 第一回内国勧業博覧会にビスケットを出品、“乾蒸餅”の名称を附与され“鳳紋賞”を受賞
銀座6丁目に分店開設、本拠地を京橋南鍋町店に定める
フランス料理を開業、カレーライス、オムレツ、ビフテキ等を8銭均一で売る
明治13年 イギリスよりビスケット製造機械購入
明治17年 シュークリーム、キャンディーを新製し、発売
明治25年 マロングラッセ、マシュマロ(真珠磨)発売
明治30年 宮内庁御用達となる
 この頃の銀座にはもう一軒、評判高いパン屋がありました。「木村屋」です。木村屋は明治2年に新橋にて創業、その後銀座尾張町に移転しますが例の銀座大火で被災します。店主の木村安兵衛とその息子英三郎は、この困難に打ち勝ってパン屋を銀座に再建、明治7年(1874年)にはイーストを使わず米麹によって発酵させる、画期的なパン作りに成功しました。木村屋のほんのり酒の香りがするパン生地は、日本人の好みにぴったり合いました。当時の日本人はイーストの香りが苦手だったのです。それにくわえ、パンの中にはおいしいあんこが。ここに「木村屋のあんぱん」は誕生したのです。その年暮れに店で売り出したところ、あんぱんは爆発的な人気。あんぱんの評判はやがて明治天皇のお耳にも入り、翌年の4月には、山岡鉄舟を通して天皇にも献上されました。このとき、あんぱんの中央にくぼみをつくり、桜の花の塩漬けをのせました。これも風味絶佳と評判となり、木村屋のへそパンとして知られるようになったのです。後には、あんこのかわりにジャムやクリームやカレーをいれるようになり、この木村屋スタイルは日本のパンのスタンダードとなりました。
 ちなみに、山岡鉄舟は木村屋のあんぱんの大ファンでした。木村親子とも懇意で、明治21年に作られた木村屋の立派な看板の題字は山岡鉄舟の筆だったそうです。それにしても、剣豪であり、江戸城無血開城の立役者としても知られ、幕末の三筆にも数えられる山岡鉄舟が「あんぱん」と、かくも意外なつながりを持っていようとは。歴史の妙に感じいってしまった長兵衛です。今度、国泰寺に参りましたおりには、「あんぱん」を思い出しながら鉄舟さんのご位牌に手を合わせたいものです。
 文明開化の明治、花の銀座を舞台にと木村屋との華々しい「パン対決」が繰り広げられたのでしょうか。上記のの年表を見ると、明治時代すでに商品は、多岐にわたっていたことが分かります。おなじみの「ゴーフル」はまだお目見えしていませんが、リキュールボンボン・ビスケット・アイスクリーム・シュークリーム・キャンディー・マロングラッセ・マシュマロなどが次々と店頭に登場し、副業としてカレーライス、オムレツ、ビフテキなどをだすフランス料理店も営まれていました(メニューにコロッケがあったのかは残念ながら不明)。明治20 年代の東京では西洋料理店の数がうなぎのぼりに増え、人気商売のひとつとなりましたが、は西洋料理店のなかで最も有名でした。そんな銀座きっての立派な西洋料理店で修業できたのですから、梶川さんは随分ラッキーだったといえます。入門の背景には、おそらく、菅野伝右衛門・木津太郎平ら当時の高岡商人の後立てがあったのではないでしょうか。
 明治23年に、自称「異彩を放つ」高岡から夢を抱いて東京に出てきた、田舎ッぺの梶川さん、銀座のの門をくぐったときにはたいへんなカルチャーショックだったと思われます。西洋菓子に西洋料理、何せ当時の高岡は殺生食いを嫌う大仏都だったのですから。電光烈火の直撃をズドーンと受けたんでしょうね。
 それから、明治22年・23年には日本のパンの歴史において特筆すべき出来事がありました。その頃の東京は、憲法発布、江戸開府三百年、内国勧業博などで盛り上がりましたが、反面、2年続きの凶作で米価が高騰し庶民の生活が困窮していました。そんなとき、激安パンが登場して屋台で売られるようになったのです。この激安パンは、パンとはいえないようなシロモノだったようですが、味噌・醤油・きなこを表面に塗って味付けして販売したところ人気を得、おなかをすかせた庶民に普及しました。「代用食」としてのパンの歴史はここに始まったのです。
 さて、銀座といえば、老舗洋食店「煉瓦亭」を思い浮べる人も多いのではないでしょうか。明治28年創業の煉瓦亭は元祖カツレツの店として有名です。煉瓦亭のカツレツは、豚肉に小麦粉・卵をつなぎにして生パン粉をまぶしたっぷりの油で揚げられました。たっぷりの油の中に衣をつけた肉を泳がせて揚げる方法は、フランス料理にはなく日本独自のもの。天婦羅にヒントを得た方法でした。また、フランスに生パン粉を使った料理はなく、煉瓦亭が独自に考案したものとされています。それは、残ったパンを捨てずに使うための手段でした。残ったパンをおろし金で粗削りし、カツレツの衣にしたのです。煉瓦亭ではカツレツに始まって、さまざまな揚げ物メニューが誕生しました。
 それにしても、残ったパンを捨てずに使うための手段としてパン粉を使った揚げ物、カツレツが生まれたというのはうなずける話です。残ったパンを無駄なく利用でき、しかもおいしくて客に喜ばれるとあって、パン粉の揚げ物はあっという間に全国の西洋料理店に広まりました。洋食屋とパン屋を兼業していた梶川さんのレストランで、何が中心的なメニューだったのかが、おぼろげながら見えてくる気がします。

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