高岡コロッケ
 高岡では、いつ頃からコロッケが街角に登場したのでしょうか。高岡コロッケの発祥について調べてみたところ、次のようなことがわかりました。
 高岡で一番初めにコロッケを作って販売したと思われるのは、梶川亮太郎さんです。つまり、『高岡新報』大正14年10月25・26日付の「元祖しらべ」という記事によりますと、梶川さんは東京のでパン作りの修行を積んだ後、明治25年に御馬出町(御馬出町角、今の高峰公園と大法寺の向かい)でパン屋「風玉堂」を開業。その後さらに、京都の東洋亭レストランにて西洋料理を修業し、明治33年、パン屋の二階に西洋料理店を開業したのが高岡の元祖西洋レストランであるといいます。梶川さんのコックとしての腕前はすばらしく店は繁盛し、後には片原横町に移転してレストラン「宝亭」を新装オープンしました。この宝亭、今は姿を消してしまいましたが、小さいながらもレンガ建ての瀟洒な洋館であったそうです。
 当時、日本の三大洋食といえば、一にトンカツ、二にコロッケ、三にライスカレー。梶川さんのレストラン「風玉堂」の1階はパン屋だったのですから、パン粉をまぶして揚げた、トンカツやコロッケは、レストランのメインメニューであったことが予想されます。高岡コロッケの発祥地は、梶川さんが開いたレストランとしてよいのではないでしょうか。
 先の『高岡新報』「元祖しらべ」は梶川さんが西洋料理を志した経緯についても記しています。ある新聞に「高岡には、洋食・西洋料理を営むものは一軒もない。古風な商工人たちは、新しいことを好まない」「高岡は寺ばかりが多い、時代遅れの仏都である」などと書かれていたのを目にした梶川さんは、「高岡が時代遅れの仏都とは何事か」と、いたく噴気して自ら西洋料理店を開業することを決意したというのです。そして、一念発起した梶川さんは京都に出て、当時評判だった東洋亭で西洋料理の修行を積んだのでした。京都には今も東洋亭という老舗レストランが二軒、丸太町と植物園前にありますので、興味のある方は訪ねてみてください。もしかすると、高岡コロッケのルーツに出会えるかも知れませんよ。
 この「元祖しらべ」から察するに、高岡における西洋料理店の誕生は他の地方都市に比べて決して早い方ではなく、むしろ遅いほうだったようです。金沢市初の西洋料理店は明治10年ごろ兼六園の中に、また富山市では明治18年総曲輪通りに出来たといいますから 、明治33年に開店した高岡初の西洋料理店はそれと比べても遅れていました。
  高岡新報「元祖しらべ」は次のように書いています。
 「本願寺の金庫といわれている位、北国地方は仏教が盛んで熱心な仏教信者が多いというとはいまさらいうまでもない。徳川幕府は永い鎖国の夢から醒めて開国のとばりをあげた。あらゆる海外の新しい文物が堰を破った水のようにとうとうとして国内に流れ込んだ。しかしながら、仏都の湊だけは開かれなかった。『せいよろうろ(西洋料理)は毛唐の食うもんじゃ、日本人が食うと口が曲がる』そうした流言も当時の高岡の人々にとっては迷妄ではなく、確固たる真理として信じられていた」
  私の祖母は明治28年の生まれでしたが、生涯をとおして肉食をしませんでした。熱心な真宗信徒だった祖母は、肉食をすれば極楽往生できないと信じていたのです。高岡には祖母のように殺生食いを嫌う頑固ものが多かったのです。そんな高岡をして、「仏都」とはよく言い当てたものです。
 しかし、そんな高岡にも梶川さんのような「食の革命児」が現れ、果敢に洋食の時代を切り拓いていったわけです。コロッケは、高岡における食の革命のひとつの象徴といえるのかも知れませんね。
 補足しておきますが、祖母はコロッケが好物でした。祖母にとって、肉じゃがコロッケは殺生食いに入らなかったようでパクパク食べておりました。今思えば、滑稽な話です。もしかすると、生まれたばかりのころの高岡コロッケには、肉が使用されていなかったのではないかとも思います。
スパー守山町店の揚げ物コーナー
俵型のコロッケが並ぶ
高岡コロッケののぼり旗

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