北の毘沙門天
越中一宮 気多神社
 そして、日枝神社の山王信仰とともに、もうひとつ「北」をイメージするものを紹介しておきましょう。
 六渡寺から、庄川を挟んだ対岸には、越中一宮気多神社と国分寺跡があります。気多神社の起源は古く、天平宝字元年(757)に、越中国と能登国が分離したときに、能登羽咋の気多大社から、越中の国府のあった当地に勧請したのが始まりと言われています。
また、国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇の発願により、国家鎮護の目的で、国毎に作られた国分寺のひとつ、越中国分寺をルーツとすると推定されています。
 (ちなみに、かの大伴家持が越中国司として、当地に下ったのが、天平18年(746)、帰京したのが天平勝宝3年(751)のこと。)
この国分寺跡に所蔵されている、文化財のひとつに木造毘沙門天立像があります。この像は、もと、隣接する気多神社の本地仏であったもの。毘沙門天がいつから、気多神社に祀られるようになったのかは、定かではありませんが、桧木材の寄木造で、鎌倉期の写実的な作風が色濃い、躍動感あふれる仏像です。
 毘沙門天は、護法神四天王のひとつですが、室町時代以降は、武勇と戦勝の神として武将たちに人気が高く単独で信仰されるようになりました。特に、戦場では常に白地に毘沙門天の「毘」の文字を染め抜いた軍旗を掲げて戦った越後の上杉謙信が有名ですね。
越中国分寺跡
伏木国分寺蔵 毘沙門天立像
 また、毘沙門天は、北方の守護神でもあります。平安京造営時、京の北方から押し寄せてくる悪魔の邪気を食い止め都を守る為、京の北に位置する鞍馬山に、北方の守り神である「毘沙門天」を祀り、鞍馬寺が造られたことは有名です。
 気多大社の本地仏(現在は国分寺所蔵の)、毘沙門天は、京都鞍馬寺の毘沙門天と同様、高岡開町の時、北方の守護神に見立てられたのではないでしょうか。  
伏木国分寺には、毘沙門天のほかに、木造文殊菩薩坐像、木造大日如来坐像、木造帝釈天像が所蔵されており、4体とも高岡市の指定文化財ですが、この仏像4体の中における毘沙門天の意味が何なのか、私には分かりません。
 しかし、高岡城下町との関連から、毘沙門天の意味を問うたとき、毘沙門天の存在は大きくクローズアップされるのです。それは、高岡の北方の守護神!

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