六渡寺と総持寺
 周知のように、滋賀県の日吉山大社は、天台宗比叡山延暦寺の鎮守として平安時代に建立され、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三如来を、それぞれ日吉社の祭神、大山咋神(オオヤマクイノカミ)・大己貴神(オオナムチノカミ)・宇佐大神(ウサノオオカミ)の本地仏とし、ことに三祭神が重要視される一方、比叡山の広大な神域には、山王七社を含む山王二十一社が形成されました。地元でもこうした山王信仰の影響を受けて、六渡寺だけでなく、二上山にも、山頂に山王社が祀られ、山中には山王二十一社が勧請されていたことが知られています。
 また、山王信仰は、"天に北斗七星,地に山王七社"といわれて、北斗七星信仰や北極星(北辰)信仰と強く結び付いていました。
前田利長は、地元の往古より続く山王信仰と六渡寺湊とを、自らの統率下とすると同時に、高岡城下町の〔北〕の風水デザインとして六渡寺を、組み入れたのではないでしょうか。
 つまり、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の山王信仰由来の三体仏を祭神とする、六渡寺日枝神社を、風水都市高岡の北天に見立てたのです。そう考えると、六渡寺日枝神社の山王鳥居の三本の柱は三体仏で、頂点にある飾りは、北天の星の運行を司る「北極星」に見えないでもありませんね。
 そして、注目すべきは、先の真言宗寺院、総持寺の千手観世音菩薩が、この六渡寺の浜から上ったものだとの伝承があることです。なぜ、千手観世音菩薩の出自が「六渡寺の浜」であらねばならなかったのか、私の以前からの疑問は、この「信仰ライン」を見出すことにより、氷解しました。
 無論、千手観世音菩薩が、本当に六渡寺の浦に漂着したというのではないのでしょうが、総持寺と六渡寺とを結びつけることで、前田利長は南北の信仰ラインの存在を強調したのでしょう。 
 以上のように、北天の見立てである六渡寺日枝神社、ポンポン山、高岡城、そして六渡寺の浦から発見されたとの由来を持つ、千手観世音菩薩が鎮座する総持寺は、一本の直線上に設置され、南北を貫く信仰ラインとなっていたのです。
 前田利長が高岡町に施した風水は、実に壮大なものであったようです。

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