六渡寺の山王信仰
 さて、今度は、この信仰ラインを逆方向に、富山湾に向って延ばしてみます。すると、六渡寺という湊町にたどり着きます。
 六渡寺湊は、『源平盛衰記』にも登場する歴史の古い湊です。寿永2年(1183)木曽義仲が5万余りの軍勢を率い六渡寺に駐屯したとの記述があり、この頃よりすでに、六渡寺は越中の水陸交通の要地として繁栄したようです。
 六渡寺は、慶長14年(1609)前田利長が高岡城を築いた時、隣接する伏木湊・放生津湊とともに資材の運搬にさかんに利用された湊でした。
 また、江戸時代初期から明治33年(1900)まで、庄川と小矢部川は、伏木・六渡寺の少し川上で合流し、一本の大河川となって富山湾に注いでいました。二つの河川によって運搬される大量の物資は、六渡寺湊と対岸の伏木湊に集荷され、渡海船に船積みされ、北前船交易を支えていたのです。特に庄川と小矢部川との流域は、加賀藩随一の米どころであり、河口の二つの湊は、加賀藩の藩米の輸送には最も重要視される港でした。
二上山から見た、伏木(前方)・六渡寺(中)・放生津(後方)。明治中期まで、庄川
と小矢部川は、伏木・六渡寺の川上で合流、一本となって富山湾に注いでいた。
 六渡寺には、日枝神社があります。日枝神社の鳥居は、鳥居の上に三角形が乗っかったとても特徴的な形をしています。これは、山王鳥居といって、比叡山の日吉大社の鳥居を模倣したもの。二つの写真を並べて見るとそっくりですね。でも、地元の方がおっしゃるには、全くのコピーではないそうです。どこが、違うのか分かりますか。
山王鳥居のある六渡寺日枝神社
社宝に薬師如来(室町時代)、釈迦如来(平安時代)、阿弥陀如来(室町時代) があります。 (新湊市指定文化財)
こちらは、本家本元、
日吉大社の山王鳥居
 よく見てみると、六渡寺日枝神社の鳥居には、鳥居の上に乗っている三角形の頂点に、ひとつ、飾りがあって、この飾りは、総本社日吉大社にはなく六渡寺の山王鳥居だけのものだそうです。なるほど。
 この突端の飾りが、何を表現しているのか定かではありませんが、地元では北前船の船体の形だと言っているそうです。
六渡寺日枝神社玉垣 
新湊市指定文化財
 六渡寺は北前船交易でたいへんに栄えた湊。山王鳥居の横にずらりと並ぶ玉垣は、全国津々浦々の著名な海商たちが奉納したものであり、中には、北風荘右衛門なんていうビックネームも。
 山王鳥居や玉垣は、往時の六渡寺湊の繁栄ぶりと商人たちの篤い信仰心とを今に伝える貴重な歴史遺産です。鳥居の天辺の飾りが北前船を象徴しているという解釈にはうなずけます。
 現在の山王鳥居は、天保10年(1839年)に六渡寺の海商湊屋清右衛門と北野屋与八が寄進したもの。それ以前の鳥居の形については、定かではありません。しかし、それ以前からの形式を継承した形と私は考えています。
 この日枝神社は、一説に養老元年(717年)、全国行脚で知られるかの行基が、当地と二上村に滞在し、この社の境内に養老寺を建立したとの伝承があるほど、起源の古い聖地です。また、六渡寺の名は、平安時代に京都の六道珍皇寺から起こったものと言われています。明治以前には「山王宮」と呼ばれ、寺とも神社とも区別できない信仰の場でした。
 六渡寺日枝神社の起源について、新湊市博物館で尋ねたところ、平安時代末期の大治2年(1127 )ごろに書かれた「日吉大社禰宜祝部某書状」(国宝「半井家本医心方」紙背文書)に「六度寺神人」の名が登場し、越中国衙の経済活動を支える役所である沙汰所の管理を任されていることを記しているので、その頃にはすでに日吉神人(日吉大社神主の資格を得ていた運送業者)が六渡寺に定住し、山王社の宗教施設もあったと考えられるとのことでした。
 また、六渡寺日枝神社は、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三体仏を祭神としていますが、釈迦如来は平安後期の作、阿弥陀・薬師は室町時代の作です。そして、阿弥陀と薬師は同一材から作られていることから、先行して存在していた中尊の釈迦如来に合わせて、その後室町期に阿弥陀・薬師を造立し、三体仏の形がそろえられたのではないかと教えて下さいました。
 いやー、新湊の歴史の古さに改めて感じ入りました。ベニズワイガニやシラエビもおいしいけど、歴史のほうも、おいしいですねぇ。

Copyright 2005 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.