総持寺千手観音
総持寺の門前
 次に、信仰ラインの〔南〕を訪ねてみましょう。
ポンポン山から、高岡城の内堀沿いに直行し、大手門を通って直線を延ばしていくと総持寺という寺にたどり着きます。衆徳山総持寺の門は、高岡城の方角に向って開かれています。
 このポンポン山と総持寺を結ぶラインを、私は北南の「信仰ライン」と考えました。繰り返すようですが、このラインは、実際の方角とは、45度ほどズレる「見立ての方位」に基づくものです。
 衆徳山総持寺は、真言宗の古刹です。前田利長の依頼で詩経の一節「鳳凰鳴矣干彼高岡・・・」から「高岡」の地名を選んだのはこの寺の住職だといわれており、また、高岡の地祭り(地鎮祭)、それから瑞龍寺の地祭りもこの寺の僧が執り行ったと言いますから、まさに信仰ラインの「南」の条件である「由緒ある寺院」にふさわしいといえるでしょう。
国指定重要文化財 総持寺千手観音
大仏師幸賀 小仏師頼真作
 それから、総持寺は、前回の古城万華鏡Wでお話した倶利伽羅長楽寺の秀雅という、利長公の信頼厚い側近で、ユーモアと知恵とを兼ね備えた真言宗傑僧が、住職を兼務していたという寺でもあります。
 総持寺の起源は大変に古く、14世紀中頃に現在の福岡町赤丸(五位庄とも)に創建されたとされています。前田利長が守山城主時代に祈願所となり、高岡開町の際に、招き寄せられて現在地(高岡市関町)に移りました。 
 本尊の千手観世音菩薩座像は、ヒノキの寄せ木造りの仏像で国指定重要文化財です。総持寺が「かんのんでら」と呼ばれ、高岡市民に親しまれているのは、この千手観世音菩薩像をお祀りしてあるからです。秘仏として長らく33年に一回の御開帳が行われるしきたりでしたが、近年、毎年11月15日に開帳されるようになりました。この日は、観音様に信仰を寄せる人のみならず、全国の仏像ファンたちも多く足を運ばれます。
 気品が漂う温和で端麗な面立ちや、ゆったりとした衣文の流れからは、南北朝をくだらない時代の作風が見て取れます。
 また、胎内銘から、河内国の金剛寺の禅恵法印が願主となり、正平8年(1353)に、大仏師幸賀、小仏師頼真 により作られた仏であることが分かっており、願主の禅恵は、天野山金剛寺の13世住職と推定されています。
大阪府河内長野市金剛寺の天野殿
 金剛寺は、現在も大阪府河内長野市にある真言宗の巨刹です。古くから、奈良の室生寺とともに「女人高野」として知られ、女人禁制の高野山の霊験にあやからんと多くの女性たちが、金剛寺を参詣しました。総持寺の千手観音もかつては、この金剛寺に安置され、高野山にあこがれる女性たちによって拝まれていた時代があったのでしょうか。
南北朝時代の金剛寺は、南朝の祈祷所として歴代天皇の保護を受けました。後村上天皇の代には、正平9年(1354)から、6年間にわたり、この寺の天野殿で南朝の政務が執られ政治の中心地でもありました。そのような中央の貴人たちが集う雅なステージに、総持寺の千手観音様はおられたわけです。どうりで、垢抜けした美しいお顔をしておられます。
 一体、どのような流転の末、この美貌の仏が、鄙びた北陸の地にもたらされたのでしょうか。現在、それを知る手懸りはありませんが、高岡近隣には、南朝の末路にまつわる悲しい伝説が豊富であることと合せて、とても興味深く思います。
 400年前の前田利長の時代には、この美しい仏の流転の記憶が、まだ鮮明な命を持っていたかも知れません。私は、総持寺の住職が語る、千手観音の流転のドラマに、利長公が、静かに耳を傾ける姿をひとり想像しています。
 また、総持寺は、高岡新西国観音霊場のひとつでもあり、寺を囲むようにしてある三十三観音(現在は29体)の石仏が配置されています。石仏たちのほのぼのとした表情には心和ませるものがあり、私の好きな場所のひとつです。
 あとから、地図でも紹介しますが、瑞龍寺と総持寺は、至近距離にありますので、瑞龍寺ご参拝の折には、ぜひ足を延ばして訪れてください。

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