加藤清正、高岡に現る
名古屋市 加藤清正石曳きの像
 高岡の法華宗寺院ひとつに法流山妙伝寺があります。妙伝寺は、守山城下町から前田利長に付き従い、慶長16年の満姫(前田利長の娘)葬儀に回向したことにより土器町に800坪の寺領を与えられて高岡に居住するようになりました。後に妙伝寺は、上桶屋町(大町)に移転します。
さて、この妙伝寺には、武勇絶倫の武将として、また築城の名人としても名高い、加藤清正公の像が祀られていて、清正公にちなむ興味深い伝承が伝えられています。
「本堂に安置されている加藤清正像は、もと二上山の麓の寺にあったものが、いつの頃か本寺に伝えられた。幕末の文政4年や明治33年の高岡の大火では、寺の隣地まで猛火が及んだ。しかし、そのたびに、本堂の屋根の上に、清正公がお立ちになりお題目を唱えられた。すると摩訶不思議かな、火の手は寺の手前でぴたりと止まり、本堂は焼失を免れた。」「高岡大火の時、馬に乗った加藤清正公が参上し、火を消し止めたので、上桶屋町し類焼を免れた。」
妙伝寺所蔵 加藤清正公絵図
 妙伝寺では、毎月、清正公の月命日の24日には「清正講」を開いておられるそうです。戦後一時、清正講が途絶えた時、町に火事があったので、上桶屋町の人々は清正公の伝説を思いおこして、講を再開。地元上桶屋町では、今も火伏せの守り神として清正公を信仰しておられます。上桶屋町の皆さんが、鈴を鳴らしながらの「火の用心」の夜警を江戸時代から連綿として続けておられるのも地元では有名な話です。この夜警の習慣の根底にも火伏せ神としての清正公信仰があるのでしょう。江戸時代から一日も休むことなく夜警を続けておられるというのですから、頭が下がりますね。
清正公信仰は、武勇者であった戦国武将の加藤清正が熱心な法華信者だったこともあり、日蓮宗と結びついて全国に広まりました。現世利益的な民間信仰と密着した清正公信仰は、特に江戸時代の後期から明治まで全国的な盛り上がりを見せました。日清・日露戦争で日本軍が、朝鮮半島に侵攻した時代には、武勇長久の神、日本軍の守護神と崇められた清正公です。
妙伝寺には、まことに珍しい加藤清正公の木彫坐像が安置されています。品格ある作風で、玉眼を施された立派なものです。妙伝寺の寺伝によると高岡開町の時代の制作であるとのこと。また、清正像を納める厨子も精巧なもので、高岡御車山の曳山の装飾と類似する木彫が施されているほか、清正公の蛇の目の紋の金工細工が付されています。
400年前作成の伝承が本当ならば、妙伝寺の清正像は他所のものとは一線を画した、たいへんに起源の古い信仰と考えられます。清正像の中でも日本最古の部類に属するものとして注目されるでしょう。
清正像は、寺伝によれば、約400年前の作という。品格ある清正公の木像は文化財指定にふさわしいもの。また、厨子上部に施されている彫刻には、高岡御車山の高欄に彫刻との類似が見られて興味深い。御車山と同年代の造作かと推定される。
一番町通の曳山高欄  宗教性や伝統的な花鳥風月から、脱却したモチーフを選んでいるところが特長。清正像を安置する厨子の彫刻と類似する。高岡開町当時の作という。
管見の限りでは、清正公の木像は、京都本国寺に所蔵されているのが、最も古い清正公木像であり、これは文化年間の作であるとのこと。その他の地域の清正像は、明治維新を前後して作られたものが多いのです。
妙伝寺の清正像や厨子の制作年代について、高岡市では未だ綿密な学術調査が行われてはいません。いわば妙伝寺の秘仏として、年に一度きりの開帳がひっそりと行われることで、清正像が守り伝えられてきたため、広く知られることもなく、学術研究の対象とされもせずに今日に至っているのです。 北陸においては加藤清正の信仰そのものが極めて珍しいですが、清正公の神像が高岡に存在することは、見落とせないと思います。
前田利家・利長も加藤清正も、等しく豊臣家筆頭の重臣でした。関が原合戦以降はともに徳川方の大名に転身しながらも、豊臣家継続のために尽力を惜しみませんでした。熊本の加藤清正は九州大名たちの重石として、かたや前田利長は北陸大名たちの重石として、徳川方大名と豊臣方大名との微妙なパワーバランスを保持する役割を担っていたのです。しかも、加藤清正と前田利長は同じく永禄5年(1562)の生まれ。清正が慶長16年(1611)に死去。利長は3年後の慶長19年に死去と、同年代を生き抜いているのです。
清正と利長との接点については、あまり語られることがありませんが、妙伝寺の加藤清正像は、加藤清正と前田利長との深い絆を今に伝える貴重な遺産なのかも知れません。
りの深い七尾の、日蓮宗本源山実相寺にも、加藤清正公の像が安置されていて、こちらは9月24日に開帳の祭礼をしているそうです。 ちなみに、前田家との関> それにしても、清正公、トレードマークの高烏帽子姿で屋根の上に立って「なんみょーほーれんぎきょ」を唱えておられたんですかね。しかも、藩政時代をとうに過ぎた明治33年(1900)の大火でもご活躍とは、摩訶不思議どころじゃない。
明治33年の高岡大火では、10時間以上にも及ぶ猛火で高岡の約6割にあたる4000軒余りが焼失。 先代高岡大仏も頭部を残し焼失し、また、主だった市の施設や高岡関野神社のほか25以上の寺院が焼失してしまう大惨事でした。この災害の反省から防火建築として建てられたのが、山筋町に今も残る土蔵造りの町並みです。
御馬出町 佐野家 土蔵造住宅
 ちなみに、高岡生まれの化学者高峰譲吉博士がアドレナリン結晶化に世界で初めて成功したのも、加藤清正が御堂の屋根に立って、「なんみょーほーれんげきょ」のお題目でもって、燃え盛る火の手を消し止めたのと同じ明治33年のこと。
これには、時空警察もびっくりでしょう。
清正公、恐るべし。
しかし、さらに恐るべきは、高岡の人々であって、昭和40年代(1965~)においても、妙伝寺の清正火伏せ信仰は未だ色あせず、近隣に火事があったときには、清正公の姿をひと目みんとて、寺の境内は野次馬で溢れかえったのです。そして、なんと、野次馬の中には、実際に御堂の屋根に清正公の姿が見えた人がいたとか、いなかったとか・・・・。
とても、アンビリーバブルな高岡に、絶句でしょう。
(いくらなんでも、それって、高岡消防署のレンジャーの人じゃないの?)
このような妙伝寺の火伏せ神としての清正信仰は、けっして起源の古いものではなく、幕末期から明治時代にかけて全国的に流布した現世利益的な清正公信仰の影響から起こったものでしょう。妙伝寺所蔵の立派な清正像に、高岡の町人たちが火伏神の性格を付加させたのだと思います。清正公が屋根の上に出現したり、馬に乗って颯爽と参上したりして、高岡の町人たちを災難から救うなどは、娯楽性に富んだいかにも楽しい話です。
妙伝寺の加藤清正像の年に一度のご開帳は、毎年7月24日の清正公命日です。
全国の加藤清正ファンの方、高岡にお越しの際には、清正ゆかりの妙伝寺にもぜひどうぞ。そして、御堂の屋根の上に清正公の姿がないか、しっかりご確認を。もしかすると、もしかするかも、知れませぬぞ。
また、開町400年を向えようとするこの機会に、高岡市で、妙伝寺の「加藤清正像」の学術調査をぜひ行っていただきたいと思います。もし、400年前の制作であると証明されるならば、高岡開町の時代を物語る貴重な遺産として評価されるべきです。また、日本最古の加藤清正像が高岡で発見されたということになれば、加藤家と前田家との関係についても新たな解釈が生まれることでありましょう。400年記念事業の目玉のひとつとなると思います。
清正公祭礼の日の妙伝寺
清正公祭礼の様子。とても、迫力がある。祭神は、中央が加藤清正公、両脇は三十番神と鬼子母神。一年に一度だけの開帳に、たくさんの信者の方たちが集まっておられた。

Copyright 2005 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. All rights reserved.