秀吉の京都再興
 また、時代が下って天正14年(1586)、豊臣秀吉が戦乱で荒れ果てた京の都に、5層の天守閣をもつ大城郭「聚楽第(じゅらくだい)」と洛中洛外を分ける防御施設「御土居(おどい)」を造り、また、町割りを再編成して、京の町の再興を図りますが、それに先立つ、天正10年(1582)、次のような一件により、船岡山は世間の注目を浴びることになります。
 秀吉は、本能寺の変で自害した織田信長の葬式を、信長の死後4ヶ月の後に、船岡山の北に位置する大徳寺で盛大に執り行いました。この時、参加した僧の数は、臨済宗をはじめ京都内外の諸宗派、幾万人とも知れないほどであったといいます。そして、大法要の後、大徳寺から西大路の蓮台野の火葬場まで、千人の僧に大音声で読経させ、仏像を信長の遺体に見立て、棺を金紗金襴で被って、豪華絢爛に飾った葬列を仕立てて練り歩いたのです。この時の警護の武士は、1万人余りにも及んだそうです。明智光秀を討った秀吉は、この前代未聞の盛大な信長葬式で、この時とばかりに権力を誇示し、京の人々の民意を掌握したのでした。後陽成天皇の聚楽第行幸もそうですが、このような大イベントの企画力・演出力では、現在の広告代理店どころの比ではなく、秀吉はまことに才能溢れる人物でした。
 そして、秀吉は、信長の菩提を弔うため大徳寺に総見院を建てる一方、船岡山東麓に織田信長・信忠親子の霊廟を設けてその御霊を慰めるべく、正親町(おおぎまち)天皇から「天正寺」の寺号を許してもらって寺を建てようとしました。(しかし、天正寺建立は結局中断。その後、明治維新を経て、信長の大ファンであった明治天皇が信長を祭る神社として現在の建勲神社を船岡山に創建。)
 豊臣秀吉は、京の町を近世都市として再建し、平安京内裏の跡地に秀吉の城「聚楽第」を築くにあたり、織田信長の霊力を借りて、再び船岡山の玄武としてのパワーを高めようとしたのではないでしょうか。秀吉は、再び平安京の基準点、船岡山を玄武に見立て都市計画を進めて、京の都を再生させたかったのです。
高岡最古の町図 
明和8年(1771)
高岡は縦に長く、碁盤目状の町割りを持つ。
聚楽第と御土居 豊臣家五大老のひとり毛利輝元が築いた広島城下町も秀吉の都市計画を参考にして作られたという。
 お話を高岡に戻しましょう。
高岡の城下町造営には、「聚楽第城下町」とも言うべき、秀吉の京都の都市計画が強く影響していると私は感じています。
 高岡城の建材は、聚楽第を移転したものだ、豊臣秀次邸を移築したものだという伝説や、高岡御車山は前田利家が豊臣秀吉から下賜されたものだ、御車山は秀吉が聚楽第に後陽成天皇と正親町上皇の行幸を仰いだ時に使用された鳳輦(ほうれん)の御車であるという伝説が高岡に古来より伝わっていることを思えば、「聚楽第」や「豊臣家」は、高岡の町のルーツに深く関っているに違いありません。
 この予想を裏付けるように、「三州志」という加賀藩の歴史書には、
 「(高岡の)町割りもこの時(高岡開町時に)、改まり、京師の町形に倣い作られるとなり」と、書かれています。高岡城下町が、城を境にはっきりと武家屋敷・町屋に区分けされていたこと、縦に長く形成され、正方形の碁盤目状の町割りであったことなどは、まさに秀吉の聚楽第城下町のスタイルを継承するものです。
 また、城郭研究家の中には、聚楽第と高岡城との縄張りの類似性を指摘する方もおられます。確かに、「お城めぐりファン」の大井さんが製作された聚楽第想像図を見ていると、高岡城の天守閣があったといわれる位置は、聚楽第の5層の天守閣の位置と合致しています。両者とも北の隅です。そして、全体として幾何学的な長方形であること、周囲に広い水壕を持つことなども共通点。
 高岡城のルーツが、聚楽第にあるというのは納得です。
 大井さんの聚楽第想像図は、高岡のものにとっては、高岡城想像図。幻の城高岡城のイメージが膨らんでくるようです。素敵な図を製作して下さり、ありがとう。大井さん。
左上 大井さんによる聚楽第の想像図。聚楽第を描いた屏風画や発掘調査の成果を参考に再現。建物配置などは正確な考証に基づくものではなくイメージで描いた想像図です。

右上 三井文庫 聚楽第図屏風 建物を異常な程大きく強調して描いている。
 
左 高岡旧城図 金沢市立玉川図書館 近世史料館所蔵高岡城の幾何学的な様式をよく現している。高岡城天守閣は北の隅にあったと伝承され「天守台」と呼ばれていた。現在、前田利長の銅像がたてられている。


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