築城と芸能
 名古屋市博物館には、「築城図屏風」という絵図が所蔵されています。とても賑やかでエネルギッシュな築城普請の情景を描いた4幅屏風で、慶長10年代(1605-1615)の作品と推定されています。どこの誰が、どこの御城の築城の様子を描いたのか、また、誰に頼まれて描いたのかは、分からないのですが、石積み工法や建材の運搬方法などが事細かに描かれており、当時の築城工事の様子をつぶさに伝えるたいへん貴重な歴史資料です。
 お城の周りには、工事に携わる人以外にも、たくさんの見物客がぞろぞろ歩いているのが描かれていています。どの人も城郭普請の活気溢れる賑やかな有様をひとめ見ようと、繰り出してきたのでしょうね。とにかく、この屏風には、とても多くの人が描かれています。
 すでに、城下町の町並が形成されつつあり、店が軒を連ねているのが描かれています。雅な装いの人たちが、そぞろ歩きして、店の中をのぞいています。
 築城現場に集ってくる人をあてこんで集まってきたのでしょう、手打ちうどんや飲食物を売る露天商だって描かれています。この頃すでに、うどん屋さんはあったのですね。ちなみに、江戸時代初期のうどんの食べ方というのは、醤油だしではなく、梅干・味噌・わさびという奇妙な味付けで食べていたそうです。
 懸命に重量物の運搬作業をする人たちの傍らでは、新しい都市の誕生を祝っているのだと思いますが、幕を張りわたし赤の毛氈を敷いて祝宴を催す人々の姿があります。また、人形浄瑠璃の舞台が建てられ、それを鑑賞する人の姿も。それは、あたかも神社の祭礼風景を見るようです。
築城図屏風一部
城下町の町並もすでに出来始めている
 このような人々の活動の様子を見ていると、「築城」という大プロジェクトが生み出す経済効果のすごさを納得させられます。高岡城の築城風景もこのような有様だったのでしょうか。
 そして、描かれている人ひとりひとりを観察していくうち、私は、宗教的呪術的職業を持つ人の姿があることに、興味を覚えました。獅子舞・熊野比丘尼の絵解き、高野聖、山伏・鉢かずき・・・、そして、最も目を引かれるのは、石曳きの巨石の上に乗っている一集団。
 その石引きシーンをズームアップしてみました。左下をご覧下さい。面白い人たちが、巨石の上に乗っています。
 これほどの巨石となると車のついた運搬具は使わず、シュラという巨大なそりの形をした運搬具にのせて、丸太をかませながら地面を直接曳きました。この絵の枠には収まりきっていませんが、100人以上の大人数でこの巨石は引かれています。
 シュラは修羅と書き、仏陀の守護神の阿修羅に由来する名だそうです。藤井寺市ホームページの「歴史探訪」によると、「だれにも動かすことができなかった帝釈天を、唯一動かした神が、阿修羅だった。この故事から、帝釈(たいしゃく)と大石(たいしゃく)をごろ合わせし、大石を動かす木ゾリを修羅と呼ぶようになったらしい」とのこと。
 古墳時代から既にこのシュラという大ゾリは存在したそうです。
修羅に乗せて石を運ぶ様子 大阪城残石記念公園(小豆島)
 それにしても、この巨石の上の人たちって、一体何者なのでしょうか。おどけた表情のお面をつけ、思い思いの楽器を持ち、変わった形の帽子を被って、服装は統一性がなく、てんでんばらばらの独創的いでたち。高烏帽子のような被り物は、もしや加藤清正のパクリでしょうか。その隣の人の帽子は、西洋のカーニバルに見る被り物のようです。ほら貝を吹くしゃくれあごのパンチパーマ山伏も変わっていれば、南蛮装束で軽やかなステップを踏むカールひげ男などは、頭がだいぶいかれているんじゃないか?
とにかく、変わった人たちです。一応、石曳きの音頭をとっているのだろうけど、過酷な運搬作業の役に立っているとはとても思えません。ひとりでも石の上から降りて軽くしたほうがよさそうです。
 しかし、もう少しこの人たちのことをもう少し理解できるように努力してみましょう。邪魔者というには、忍びないような気がします。なんだか、彼ら、「頑張っている」っていう空気が感じられるじゃないですか。
 古来より巨石巨木には、強い霊魂が宿ると信じられていました。築城現場に運ばれる前は、どこかの聖地で崇拝の対象だったものです。それを聖地から切り離して、城に運び入れようというのですから尋常ではありません。強力な霊魂を鎮めたり、逆に霊力を高めたりの儀礼が必要になってくるわけです。ですから、このヘンテコリンな格好の人たちは、ただのふざけた目立ちたがり屋や役に立たない邪魔者というわけではなく、霊的呪術をつかさどるシャーマンたちです。
 無事、お城に神聖なる巨石がたどり着くまで、いろいろなパフォーマンスで巨石に宿る霊魂のパワーを調節するのが彼らの役目、「重くて動かないなんてことは石に宿る霊魂の仕業、そんなトラブルは僕らにお任せ」とばかりに彼らの呪術的パフォーマンスは行われたのでしょう。
 このような風景を見ると、築城の石曳きもまた、新たな芸能誕生の温床となっていたのかもしれないと思いますね。現に、関西地方のダンジリや曳山の中には、築城石曳きをルーツとするとの伝承を持つものもあるのです。
 そして、もしかすると、この巨石の上の人たちの中には、当時の陰陽師の姿を写しているものもあるのかもしれません。陰陽師は、何も野村萬斎さんの安倍清明と同じかっこうをしていたとは限りませぬぞ。
 一説によれば、この築城図屏風は徳川家康の駿府築城の様子を描いたもので、この巨石の上の人たちの持っている旗の「日の丸」は加賀藩家臣本多家の、団扇の「三つ巴」は同じく加賀藩家臣篠原家の家紋であるとのこと。築城石曳きをしているのは、駿府の手伝い普請に行った加賀藩の領民たちであるらしい。
 この説には、反論もあるのですが、加賀藩の参加した築城普請というのは揺ぎ無いようです。なぜならば、この屏風、現在は名古屋市に有りますが、元は能登の旧家の所有品でした。そして、さらにもとをたどれば、金沢の武家のものであったと予測されているのです。屏風の出処は、加賀藩なのです。とすれば、この屏風の風景、金沢城築城や高岡城築城の様子を描いたものである可能性だってあるってことでしょう。石の上の人々は、加賀の陰陽師であった可能性ありか?
築城図屏風
屏風に描かれたのはどこの城の築城風景なのだろう・・・。

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