ポンポン山

 高岡の風水を考えるに、私は先ず南北軸から再検討してみました。
 従来、実際の方角のとおり北の玄武は、二上山と疑いのないところでした。二上山山頂の山王社は、高岡城のほぼ真北に位置します。そして、高
岡城の真南に位置するのが、前田利長の墓所。このラインが北南軸=信仰ラインと目されていました。一方、現在の高岡高校のグランドの野球部のバックネット後ろに残っているポンポン山は鬼門に、瑞龍寺は裏鬼門に位置すると。
 しかし、私はあえてポンポン山を「北=玄武」と考えました。従来、鬼門ラインとされてきた軸を、北南ライン=信仰ラインに見立ててみたのです。
ポンポン山は、「入定塚」「行人塚」とも呼ばれる、墳墓です。また、中川熊野神社の神主家の先祖で利長坊(りちょうぼう)という僧が高岡開町の100年前に生きながら、土中に入り即身成仏の修行によって葬られた「利長坊塚」にも推定されています。
 「利長坊塚」は、利長坊が土中に入るときに「100年の後、この地に名君が現れすばらしい治世を行うであろう」と前田利長の高岡開町を予言したという謂れのある塚です。また、前田利長は、この利長坊の生まれ変わりであるとも。
 この利長坊が、生きながら土中に入って入滅した塚というのは、石室を備えた古代豪族の古墳だったのではないかと私は考えています。中世の僧侶(山伏)たちが、古代古墳の石室で即身成仏(生きながらミイラとなること)した例は、他の地域にも見られます。
 「利長坊塚」の説話は、高岡開町の時に、前田利長の統治を神聖化するために、創出されたものでしょう。そして、「利長坊」には、死を持って高岡を鎮護する高僧というのイメージが付加されたのです。しかも、再生して高岡を統治する殿様になったというのでから、説話は神秘的です。利長坊塚は、まさしく霊山でしょう。
 今では、単なる小山のようにしか見えず、ポンポンたぬきでも住んでいそうな名前がついている山ですが、高岡開町の当時はこの古墳が「北の方角の霊山」であったと私は考えます。
 話は飛びますが、「鳴くよ、うぐいす」の延暦3年(794)に、桓武天皇が平安京を造営するにあたって、北に位置する「船岡山」という標高112mの小山が基準点とされという説があります。桓武天皇が平安京に都を定めた時代、その地には古代信仰の磐座(いわくら)があちこちに散在していました。船岡山もそうした磐座のひとつで、その山頂には往古、信仰の場であったであろう巨石群が今も存在しています。
 桓武天皇は、船岡山を北の守り神「玄武」と見立て、平安京の中心軸である朱雀大路を真南にむかって走らせたと考えられているのです。現在の京都御所は烏丸通の東にありますが、平安京が築かれた時には、御所は船岡山のすぐ南にありました。

風水都市京都の例
北―南 木船神社・鞍馬山 ― 城南宮
東―西 将軍塚 ― 松尾神社
艮―坤 比叡山・上賀茂下鴨神社 ― 大原野神社
乾―巽 愛宕神社 ― 今熊野剣神社
北 玄武 船岡山
東 青龍 鴨川 大文字山
南 朱雀 巨椋地
西 白虎 街道 嵐山

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