高岡の基軸
 高岡城は、次の地図で見るとおり、実際の北南の方角軸にまっすぐ乗っておらず、東北の方角に傾いて作られています。正確にいうと、北南軸よりも東に43度傾いて作られているそうです。これは、高岡城が、以上述べたような実際の方位とは異なる「見立ての北南軸」の上に設計されたとしたときに始めて理解できるのです。
 また、高岡城のみならず、高岡の城下町もまた、この「見立ての北南線」の上にのって作られたことは、地図を見れば明瞭です。そして、私たち高岡市民は、今日も、実際の北南軸とは異なる、「見立ての北南線」を基軸とした町に居住しています。時代とともに、町が拡大してもこの基軸が大きく変化することはありませんでした。「見立ての北南線」に平行する道路と垂直に交わる道路が、増築されることにより、高岡の町は拡幅されてきたといっても大きな誤りではありません。
 これは、あくまで私の想像に過ぎませんが、高岡城下町のベースは次のようにして決定されたと考えています。
@ ポンポン山と関ケ淵をつないだ線を基準軸とし、
A 高岡開町以前から、二上山の守山城下町と関野ヶ原をつないでいた古道[A]を、北大路に見立て、
B 千保川の河岸段丘に沿って縦の道を走らせた
  のが、高岡城下町のベースであると。
[A]の古道は現在、高岡高校の傍の古定塚の熊野神社あたりで途切れていますが、開町当初は、点線で記したように、まっすぐ野村にまで延びていた、或いは延ばすつもりだったのではないでしょうか。
 もし、ポンポン山を京都船岡山のように城下町の中心点とするならば、前田利長は、木町と野村とを城下町の境域とする、左右対称の町、〔大高岡城下町〕ともいうべき大きな城下町を建設するつもりであった可能性があります。そして、〔大高岡城下町〕は、碁盤目状の道路を縦・横に延長することにより、半ば無限に拡大発展する可能性を持っていました。
 しかし、前田利長の死によって、当初計画された城下町は実現されませんでした。武家屋敷は姿を消し、高岡の町は、高岡城から見て、千保川河岸の側のみが、町人たちの町として発展したのです。

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