小椋池と道元
かつて小椋池は大きな湖であり、京都から大坂への
水上交通の要所だった。
 ここで、京都の〔南〕との類似点を考えてみたいと思います。先に申しましたとおり、高岡が「聚楽第城下町」の模倣であるならば、京都の朱雀と高岡の朱雀とには類似性が潜んでいるはずです。
 京の都の南には「朱雀池」とされる、小椋池がありました。小椋池が、干拓によって姿を消してしまったことは周知のとおりです。
 実は、この小椋池周辺は曹洞宗の開祖、道元ゆかりの聖地でもあります。道元の誕生の地は、伏見久我の郷。そして、正法眼蔵を書き始めたのが深草安養院。その後布教の拠点となったのが同じく深草の興聖宝林寺。いずれも小椋池の近隣に位置します。ご存知のように後に道元は越前に移り永平寺を開きますが、道元は終生、小椋池湖畔の静かな風景を愛したといいます。そして、小椋池周辺は、道元の弟子たちにとって、祖蹟巡礼の地であり、曹洞宗のメッカ(聖地)となりました。
 私は、前田利長が高岡開町にあたり、曹洞宗寺院の法円寺・龍雲寺・広乾寺・宗圓寺・天景寺・繁久寺などを南の朱雀池のほとりに集めて寺院街を造り、また、その後、前田利常が瑞龍寺というマンモス曹洞宗寺院をこの地に築いたのは、京都の南の朱雀池=小椋池が、曹洞宗のメッカであったことを強く意識してのことだと考えます。高岡においても、曹洞宗寺院は南の朱雀池のほとりにあらねばならなかったのです。
 さて、この小椋池について、さらに付け加えるならば、その池の周辺は蓮の群生地として有名でした。干拓のため、往時の眺めを今では見る事が出来ませんが、その名残りは各所に点在していて、城陽市あたりでは今でも盛んに蓮が栽培されています。小椋池に広がる、極楽浄土のような蓮の風景は、京都・伏見・大坂を頻繁に往来していたであろう前田利長にとって、とても親しい風景であったことでしょう。
 先ほど、高岡の蓮美町のお話をしましたが、瑞龍寺周辺もまた、近年まで蓮の栽培地として有名で、おいしい蓮根がとれるところでした。高岡では、蓮根のごまみそ和えや蓮根おろしの味噌汁なんていう、おいしい郷土料理がありますね。
 瑞龍寺の原風景を眺めに、タイムマシーンでもあれば飛んでいってみたいものです。おそらく、その風景は小椋池周辺によく似た、極楽浄土の蓮池のような風景が広がっていたのでしょうね。その風景は、利長公の心をとらえ、魅了したに違いありません。
 利長は、高岡の南、朱雀池のほとりの聖地に広山恕陽和尚を招き、法円寺を開きました。広山和尚と利長公が、蓮の花が咲きにおう景色の中に立って、禅問答などをしている様子を想像すると、ぐっとくるものがあります。
話は移りますが、このような蓮の群生の風景を何らかの形で現在に復元し、新たな高岡観光スポットとするなどは、とても素敵なんじゃないかと思います。高岡市役所の皆さん、瑞龍寺の側に朱雀池を中核とした庭園の建設は如何でしょうか。前田墓所・八丁道・瑞龍寺・朱雀池・庭園・総持寺をひとつの散策路とすれば、今以上に質の高い観光スポットとなると思います。
 以上、信仰ラインの南に、曹洞宗寺院を集め、さらにマンモス寺院瑞龍寺を創建したのは、京都の小椋池を、関ケ淵になぞらえていたからと読み解いてみました。南の曹洞宗寺院街の形成も、本来の目的は防御なのでしょう。寺院を砦と考えていたのです。しかし、そこには、京都の朱雀池である小椋池の模倣という、発想も関っていたのです。これは、風水といえるのかどうか分かりませんが、前田利長の思い入れが強く感じられるところです。
蓮の花と前田利長墓所の蓮の花のレリーフ
京都東福寺 通天橋の紅葉
白壁土蔵造りの大茶堂(群議閣)
 富田景周の「瑞龍閣記」には、次のように記されています。
「廊の西北角に群議閣有り。閣後に楓を植う。これ昔、微公、洛の通天橋畔より移し来ると云う。・・・・・秋には梢、爛漫として老紅燃ゆるが如し。」
 群儀閣は瑞龍寺大茶堂の別名です。その背後に、三代藩主利常(微公)が、楓の名所として今日も名高い京都洛南の東福寺の通天閣より、楓を移植。秋ともなれば、梢は爛漫として紅に染まり燃えるような美しさであったというのです。楓の紅は、風水でいうところの朱雀の「赤」に因むものでしょうね。京都でも、南に位置する東福寺に圧倒的な数の楓を植え、紅葉の名所としたのには風水的なねらいがあったのだと思います。利常公は、瑞龍寺に京都東福寺の風水のコピーを行ったのでしょう。
 ここにも、ひとつ、朱雀池庭園のヒントがありそうです。
 春には紅梅、夏には紅蓮、そして秋には楓の紅葉・・・。大茶堂の土蔵造りの白壁とのコントラストも美しいと思います。

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