高岡以前の風水?
 ここで、私は、ふと思い立ちました。
 先ほどの「関野之古図」に信仰ラインを書き込んでみようじゃないかと。
 「関野之古図」は、フリーハンドで書かれているように見えますが、地元の県立高岡西高校の美宅雅利先生の調査「関野之古図を探る―四百年前千保川はどこを流れていたか―」によると、正確な測量に裏付けられている地図だとのこと。
 美宅先生は、関野之古図は、「前田利長高岡入城、1609年より前、17世紀初頭」の頃に、「高岡城と城下の選定のために作成された」と推定しておられます。
さっそく、北(玄武)=入定塚(ポンポン山)、南(朱雀)=関ケ淵を直線で 結んでみました。 すると、不思議な発見をしたのです。
 今の北の玄武=ポンポン山と目される「入定塚」と、南の朱雀池「関ケ淵」とを結んだ線は、高岡城が築かれたと推察される丘陵地を通過し、奇しくも「七本松」「石橋」「三つ石」の真上を通過したのです。この「七本松」「石橋」「三つ石」とは、一体何なのでしょうか。「七本松」は「壽松2本 実相松2本 無想松3本」と一本ずつの名前まで記されています。

 わざわざ書き込んだからには、それらは関野ケ原において重要な意味を持っていたに違いありません。何か、一種の宗教的意味合いを持つ物のようにも思えます。
 「関野之古図」の上に引いた信仰ラインと、「七本松」「石橋」「三つ石」の位置がぴったりと重なることの意味は、一体何なのか、とても興味深いです。ただの偶然とは、とても思えません。
もしや、高岡開町以前、すでに風水都市の計画はあったということなのでしょうか・・・・。
 「関野之古図」は、このほかに、次のものがあります。
こちらの絵図にも、七本松・三つ石・石橋・関ヶ淵が書き込まれていますが、なんと七本松の中心に、高い塔と建物が描かれています。高岡以前の関野は、荒涼とした野原であった、民家も見当たらぬ処女地であったと言われる一方で、このような、先人の面影も伝えられているのです。高い塔の存在には、裏打ちされるような古文献も見当たらず、いわゆる「眉唾物」ととらえられるのが一般的です。往時の尚古主義者が生み出した空想であろうと。
 しかし、どうなのでしょう。高岡は、本当に処女地などであったのでしょうか。河川交通の便にも優れ、二上山がどこよりも形よく見え、良質の水に恵まれた関野の地が、高岡開町以前に、如何なる統治者の手にも落ちなかった処女地なんてことがありましょうか。
 前田利長の高岡城下町づくりは、忘れ去られた時代の「幻の都市」のなぞり直しではなかったのか。豊臣秀吉が、荒廃していた平安京を再興したかのように。
関野之古図 高岡史料付録

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