朱雀、関ケ淵
 さらに、私は「朱雀」に見立てられた「池」を探してみることにしました。風水では、南に「朱雀」に見立てられる「池」が存在することが、良しとされるのです。龍脈を伝い玄武の山から下りてきた龍(気のエネルギーを具現化した)は、町にエネルギーを充満させると、「朱雀池」でたっぷりと水を飲み、また、玄武の山へと帰っていくという循環の思想が風水にはありました。
 これは、雲が山に集まり、降雨となって台地を潤し、河川をたどって池(海・沢・湖)に流れ落ち、再び水蒸気となって、天上の雲となるという、大気循環の自然現象に基づく発想だそうです。
 まず、瑞龍寺周辺に「池」がないか探してみました。寺の名前に「龍」という字が入っているくらいだから、ここら辺りが怪しいだろうと思ったのです。が、見当たりませんでした。
 ところが、捨てたものでもありません。池は瑞龍寺の近隣に伝わる伝承の中にあったのです。
 瑞龍寺・総持寺のある関町に隣接して、蓮美町があります。蓮美町は昭和期にできた新しい町ですが、その名前の由来は、「かつてその地に極楽浄土の様に美しい蓮の花がたくさん咲いている池があり、そこが今の蓮美町になった」というもの。蓮美町の地は元「池」であったというのです。確かに、瑞龍寺と総持寺の背面は段をなした低地となっており、かつて池であったという気配があります。その低地が蓮美町1丁目・2丁目なのです。
 その「池」こそが、風水パワー満ちる高岡城下町の「朱雀池」でありましょう。
 この池の存在を直接に実証する資料を見つけることはできませんでしたが、高岡に伝わる「関野之古図」に記される「関ケ淵」がその「池」に相当すると私は予想します。「関野之古図」は、年代は定かではありませんが、高岡開町以前の高岡の地形を書き留めるといわれる古地図です。
 蓮見町の地が周辺部に比して低地となっており、そのくぼみの形が「関野之古図」の「関ヶ淵」の形にほぼ一致するという調査の結果もあり、ますます想像を掻き立てられます。
 次の図は明治28年に書かれたといわれる高岡地図。それと関野之古図の一部です。この地図のほうの右端の四角形は、高岡山瑞龍寺。瑞龍寺から左上の方向にまっすぐ延びているのが、前田墓所に通じる八丁道です。そして、関町の通りのクランクのところに総持寺。私が赤い線で記した箇所は、今の瑞龍寺と蓮美町との境の段差であり、「関野之古図」に見られる「関ケ淵」の沿岸線であると予想されます。明治28年においても、「関ケ淵」のあった箇所は、町立てされず、空き地・農地として利用されており白地で記されているのです。
関野之古図 関ケ淵
総持寺の場所には上梅山白峯鬼女と記されている。総持寺以前にも何らかの施設があったと見える
明治28年の高岡地図一部
 
「関野之古図」の「関ケ淵」を見ると何やら波紋のような同心円が描かれており、この淵からコンコンと水が湧起こっていたことを記しているようです。
 「関野之古図」では、巨大な千保川の氾濫原の一部として書き記されている「関ケ淵」ですが、先にもお話したとおり、本流であった千保川の流れ を庄川に移す治水工事によって、千保川の水量は著しく減少し、
瑞龍寺大茶堂前の湧き水。
隣接して「放生池」がある。
いつしか、それは川から孤立した池となり、やがては水のない低地となったのです。 そして、「かつて瑞龍寺の側に、蓮の花が美しく咲く池があった」という伝承だけが残り、その地にできた新たな町の名の由来となったのです。
 あえて朱雀池たる関野ケ淵の痕跡を言うならば、現在瑞龍寺の奥、大茶堂の前の湧き水と放生池という名の池が、関ケ淵の水源を継承するものだと思います。
 あまりこの場所を訪れる人は無いようですが、今も澄んだ冷たい水が、こんこんと湧き出していています。瑞龍寺参拝の折には、忘れず、高岡の朱雀池にも足を運んでください。

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