曹洞宗寺院群
瑞龍寺霊廟
左から織田信長・前田利家・前田利長の霊廟
 現在、総持寺に隣接してあるのが、前田利長の菩提寺である国宝瑞龍寺ですが、高岡開町当初に瑞龍寺と呼ばれる寺は未だ存在しません。 
 慶長18年(1613)、富山法円寺の広山恕陽(こうざんじょよう)が高岡に招かれ、高岡法円寺が開かれました。瑞龍寺の前身は、この太白山法円寺という寺だったのです。当時の法円寺の所在は、今の瑞龍寺の寺領内と予想されています。法円寺が瑞龍寺と改名されるのは、前田利長の死後、その亡骸が法円寺に葬られた時のこと。
 瑞龍寺建立以前、その地には、曹洞宗の寺院が集まっていて、「南」の曹洞宗寺院街を作っていたと見られています。繁久寺は前田墓所造営に伴って墓守寺として墓所の向かいへ移転となり、他の寺院は瑞龍寺造営の時に、寺領を空け渡して町屋地区に移転しました。
 先にあげた、金沢に移転となった曹洞宗寺院の中にも、かつて「南」の曹洞宗寺院街に属していた寺があったのではないでしょうか。
瑞龍寺近隣には、今もかつての寺院街の名残を伝える「寺町」の名が残っています。
もと瑞龍寺の寺領にあったと伝える高岡の曹洞宗寺院
法円寺 利長公菩提寺となりの瑞龍寺と改名
龍雲寺 現 高岡市利屋町33
広乾寺 現 高岡市片原横町17
宗圓寺 現 高岡市城光寺
天景寺 現 高岡市関町
繁久寺 現 高岡市芳野89
高岡から金沢に移転したという曹洞宗寺院
鶴林寺 現 金沢市兼六町5-18?
玉龍寺 現 金沢市野町3-24-32
宝憧寺 現 金沢市幸町8-13
金剛寺 現 金沢市寺町5-6-45

瑞龍寺前田利長霊廟 
越前式石廟のスタイル
正面右に不動明王、左に毘沙門天が浮き彫り。西洋風な雰囲気もある。
 瑞龍寺には宝筐印塔を越前式石廟で覆った5つの霊廟が静かに並んでいます。右から、前田利長・父利家・織田信長・信長の夫人・信長の長男信忠の分骨を安置したものだと言われています。織田信長の墓が高岡にあるなんて意外な気もしますが、前田利長の正室永姫は、信長の娘。信長は利長の義父にあたるという間柄です。前田家が、信長の菩提を弔うのは、当然と言えましょう。
 この5つの霊廟群が瑞龍寺の伽藍配置にぴったり平行せず、5度ズレて一列に並んでいることは、瑞龍寺の謎のひとつとされていますが、或いは、瑞龍寺と霊廟群との建造年代の違いがこのようなズレとなって現れているのかも知れません。霊廟は、法円寺時代からすでにこの場所にあったと推測する人もおられます。
 実は、瑞龍寺の前身である法円寺は、利長が、父・利家と、織田信長・信忠親子を供養するために建てた寺でした。織田信長・信忠親子を供養するために建てたというところは、京都の船岡山に秀吉が立てようとした天正寺に事情が似ています。北と南との違いはあれ、北南を貫く信仰ラインの上に、織田信長・信忠親子の霊廟を置いたことは共通しています。
瑞龍寺前田利長霊廟の外壁には、それぞれ楽器を奏でる25菩薩が彫られている。
 また、瑞龍寺の隣には、「神主町」という地名があります。この地には高岡開町とともに、山王社・熊野社・八幡社・稲荷社・神明社・カクミ社など、数々の神社が、神々のオンパレードのように集められ、江戸時代を通じて、神職者が多く居住し一大勢力を保持していました。それで、今でもこの地を神主さんの町「神主町」と言っています。
 「南」のゾーンは、総持寺・曹洞宗寺院・神職者の集住地が並ぶ、巨大な信仰スポットであったことが分かると思います。
高岡古城図(玉川図書館)一部 天保6年(1835)写し
古地図には、瑞龍寺を囲んでいた堀も描かれている。瑞寺龍以前には、
その寺領に複数の曹洞宗寺院が寺院街をなしていた。

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