消えた十文字川
 江戸時代初頭から明治時代まで、庄川と小矢部川とは、現在の河口の手前で合流し、一本の大河川となって、富山湾に流れ込んでいました。そして、河口の東に六渡寺湊が、西に伏木湊が位置していました。
 現在のように、河口が分けられたのは、明治33年(1900)の土木工事によります。2大河川が合流するため、河口では、たびたび洪水の被害に会い、港の施設や船舶にも深刻な被害が生じたため、庄川河口と小矢部川河口を分断する工事が行われたのです。
 では、江戸時代に見られるような、庄川と小矢部川が合流し一本となって富山湾に注ぐ、地形は、いつどのようにして、誕生したのでしょうか。それについては、史料が乏しく、今まで語られることがあまりありませんでした。
「しんみなとの歴史」40頁 古代末から中世に流れていた川と現在の地形
 現在の新湊市の中心には、かつて「幻の川」が流れていたといいます。それは、「十文字川」と呼ばれていたらしく、小矢部川から分流して、宮袋・上牧野を流れ、さらに分流し、六渡寺のあたりと奈呉のあたりの二箇所を河口として富山湾に流れ込んでいたそうです。
 かつての十文字川の川筋は、今日でも地面がまわりに比して低くなっています。また、現在の神楽川河口にあたる奈呉の浦の海底には、深い海底谷=アイガメが発達しており、かつてそこに大河川が流れ込んでいたことの名残と考えられています。
 この「十文字川」は戦国時代末から江戸時代初頭にかけて、何らかの理由により、姿を消したというのです。
 また、元禄年間(1688-1704)に書かれた「加越能三ケ国御絵図被仰付候覚書」には、「天正13年(1585)の大地震で今の庄川の川筋ができた。」とあり、天正の大地震により、河川に大きな変化があったことが伺われます。
 「とやまの川読本」によれば、戦国時代の終わりごろまで、庄川は現在の船戸口用水あたりを流れる千保川を主流としていました。しかし、天正13年に起こった庄川断層を中心とするマグニチュード8.2の大地震が、それまでの庄川の流れをがらりと変えたのです。近年の調査によると、庄川上流の白川郷山中の急斜面から、大量の土砂が山崩れして庄川を堰き止め、高さ90メートルにも及ぶ、巨大な天然ダムが出現しました。地震の約20日後にこのダムが決壊したと推定され、せき止められた水がいっきに流れだして、扇状地に大洪水を巻き起こしました。このとき、庄川の水流は弁財天社のところで2つに分かれ、一方は当時の本流であった千保川へ、もう一方は中田方面にできた地割れに流れこみ、新しい川筋、中田川をつくりました。このときの中田川の川筋が現在の庄川のものとなっています。その後も幾たびの氾濫が繰り返され、そのたびに庄川はその流れを変えました。
 しかし、その天正大地震のショックで、右図のように、河口がズドーンとひとつになったというのではありませんよ。
 おそらく、沿岸地域でも天正大地震の影響は深大であり、小矢部川やその支流である十文字川の流れに、新たに生まれた中田川流域からの大量の水と土砂とが押し寄せ、混沌たる風景となったと思われます。
 ここで、興味深いのは、新湊市の塚原地区に残る伝説です。
 「かつて庄川は、上牧野・宮袋の東側を流れていた。それを、高岡城を築いた時に前田利長が、川口のところで、宮袋の北西側に川筋を変えた。作事奉行には黒木円蔵が命じられた。その後、信州高井郡から移転した人々を中心に川口の開墾が始められた。」
 すなわち、この伝承から予想されることは、十文字川の流れを止めてしまい、新たに出来た庄川(中田川)を、上牧野・宮袋の西側に寄せて、小矢部川と河口付近で接合させ、人為的に川筋を変えて合流させて、1本の河川として富山湾に注ぐようにしたのは、前田利長ではないかということです。
 この河口工事によって、伏木湊・六渡寺湊の2つの港が、河口の両岸に位置する許容量の大きな湊にリニューアルされたことは言うまでもありません。伏木湊・六渡寺湊・放生津湊は、高岡築城の際の物資搬入に活用されたのみならず、北前船の時代には、商都高岡の外港として渡海船の往来でおおいに賑わいました。  
 承応3年(1654)、3代藩主前田利常は高岡に兄利長の菩提寺瑞龍寺を造営するにあたり、寺領を水害から守るため、柳瀬村の西で庄川(中田川)側へ、本流であった千保川の水の流れを移すことを命じました。 さらに、5代綱紀は、寛文10年(1670)から弁才天前で千保川へのいくつもの分流を締め切り、庄川を本流とする大工事を始め、40余年の年月を費やし、正徳4年(1714)にようやく完成を見ました。後に「松川除(まつかわよけ)」と呼ばれる加賀藩の代表的な治水工事で、近世初めの治水工事としては全国的にも注目され大掛かりな事業でした。そして、高岡近隣における、これら一連の治水工事の皮切りとなったのが、前田利長の河口一本化工事だったのです。
 私が思うに、小矢部川とその分流である十文字川の河口が、複雑に入り組んでいたところへ、天正大地震の影響で出来た新たな流れが加わり、混沌たる有様となっていた沿岸部を、一本の大河口にし、湊として整備した前田利長の土木工事は、もちろん「治水」ではありましたが、もうひとつに「風水術」だったのではないでしょうか。
 水の流れには逆流しますが、気のエネルギーを河口でひとつに集め、信仰ラインを軸にそって、小矢部川と庄川とをつたって南下させ、高岡城下町をすっぽりと包み込んで、町に気のエネルギーを充満させる。そんな風水術が、利長が生み出した大河口には、仕組まれていたのではないでしょうか。奇しくも、小矢部川・庄川のかつての合流点、大河口は、信仰ラインの直線上に位置しています。
前田利長の時代から明治時代まで、
庄川は矢印の川筋で小矢部川と合流していた。

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