城下町高岡の挫折
 風水には、基本的な方位ラインの条件があり、簡単にまとめると次のようです。
信仰ライン 北−南 北の方角に霊山や墓があり、南には由緒ある寺院がある。
霊験ライン 東―西 東には霊山や像などのモニュメント、西には浄土系の寺か神社がある
鬼門ライン 艮―坤 鬼門である艮(うしとら)=北東や、裏鬼門の坤(ひつじさる)=南西に強力な神社や寺がある。
紹福ライン 乾―巽 乾(いぬい)=北西や巽(たつみ)=南東に土地のパワーを高める寺社を設置。

玄武 北にある山
朱雀 南にある山や川、池など
青龍 東にある山並や川の流れ
白虎 西にある山並、人や物が移動する大きな道や水路
 難しい風水についての知識など持たない私、長兵衛は、前田利長によって、高岡に施された風水を考える手始めに、先ずは、この「風水の方位ラインの条件」を高岡の町に照らし合わせてみようと考えました。それならば、私にもできるだろうと。
 それが、今回のお話の中心となります。
 風水高岡の都市デザインとは、如何なるものであったのか。前田利長が施した風水術の片鱗をちょっとだけでも見つけることができればよいと思います。
 高岡は、豊臣家5大老のひとりであった前田利長により、国内屈指の高い完成度を備えた風水術が仕組まれた町だと考えられています。
 高岡の寺院に残る伝承を集めてみると、開町以前から本地にあったという幾つかの古刹を除き、高岡の多くの寺院や神社は、高岡開町を前後する「慶長年中」に、前田利長に召し寄せられて続々と高岡に移転してきたことが分かります。
 この時、寺社の配置の決定に影響を及ぼしたのが、風水の方位学でした。当然ながら寺社仏閣の配置は、単にそこがたまたま空いていたからとか、早い者勝ちで決定したのではありません。寺や神社は、高岡城下町の主たる前田利長によって立てられた都市計画に基づき、所領を与えられたのです。そして、寺社領の選定の重要な指針となっていたのが、風水術でした。開町に際し、陰陽師たちが、出来うる限りの理想的な風水都市を作り上げようと、寺や神社の設置場所の選定に知恵をしぼったわけです。寺や神社によって魔物の侵入を防ぐ一方、龍穴に気のエネルギーを呼び込んで留めさせ町にエネルギーを充満させて、いつまでも繁栄させようとしました。
 しかし、その利長が高岡に施した風水術の全容は未だ判然としないものです。高岡の城下町造りは、慶長19年の城主の死によって、絶ち切れとなり、未完成のうちに終わってしまったからです。
 慶長19年高岡城主前田利長の死、そして元和元年の高岡城廃城を経て、高岡の城下町づくりは中断されます。武士が金沢へと移ると、大掛(今の開発町)・土器町(今の大坪町)・古定塚・中川から堀上町に広がっていた武家屋敷地区が空洞化。(高岡は、城を境に、武家屋敷と町屋とがはっきり区別されたタイプの城下町でした。) 町人たちも高岡を棄て、町は衰退しました。
 風水都市高岡の大挫折です。高岡は、ここで大きな転換を強いられることになるのです。その後、都市計画の建て直しが計られ、高岡は「城下町」としてではなく、町人たちの町「商都」としての道を歩み始めることとなります。
武家屋敷は一部のみを残して、田畑に姿を変え、また町屋の借地になっていきました。
寛永5年(1629)から6年には、以上のような町の変遷を考慮して、高岡町域を貫通していた北陸街道の付替え工事が行われました。横田口から旅籠町・山町筋を通り武家屋敷のあった土器町で折れて古定塚へ通じていた開町当初の北陸街道の経路から、町屋地区の坂下町で折れて、高岡城大手・定塚口へと抜ける経路へと変転したのです。
古定塚から、定塚町へ寺院と町人の集団移動も行われました。また、古定塚口に居住していた近江の国出身の皮革職人たちが、横田口へと集団移動しています。
 町の中心は、町屋地区へとシフトしたのです。開町当初、武家屋敷地区に設置されていた数々の寺院も、町屋地区に移設されました。
この大きな町の転換期を経て、高岡に施された風水術にも、挫折と再構築があったと思われます。風水再構築の中核的事業となったのが、瑞龍寺・八丁道・前田墓所の建設であることは、言うまでもありません。各寺院の移転も、新たな風水都市計画の、青写真に沿うものであったのでしょう。
明和8年(1771)当時の高岡町奉行小川八左衛門が作製した高岡最古の町図
高岡市立中央図書館蔵
 今回、お話するのは、高岡開町の慶長時代に前田利長が作った風水についてです。幸い、高岡の寺院は、開町当初の寺領から移動せずにあるものが多く、また移動した場合でも、旧地についての伝承が残っておりますので、その伝承をもとになるだけ前田利長が高岡を開町した当時の寺院の位置を復元し、その位置が如何なる風水の法則により決定されたのかを、私なりに予想してみたいと思います。今回は、北と南とを結ぶ信仰ラインについてのお話に留まることになりましたが、この信仰ラインこそが、高岡城下町の基軸となる最も重要なラインなのです。

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